郷土誌 崗より
抜粋

1 芦屋昔話

瀬戸 正


お手洗池






2 大正懐想

小川健次郎








3 芦屋千年

向井秀雄






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松原に消えた唐津街道沿いの思いで


芦 屋 昔 話

瀬 戸 正 座  

 この話は、故岩崎天外先生が昭和二十七年六月「芦屋昔話」と題して座談会の折りにお話しになられた録音テーブよりとったものです。忠実に紙上に再現して、皆様の郷土史研究の参考にしていただきたいと考え、発表させていただきます。なにぶん二時間の長時間ものですから大変なことですが、どうぞ郷土史研究の一助としていただきたいと思います。

 それでは芦屋の歴史と物語について、岩崎天外先生のお話をうかがいます。はじめに「天狗の切り松」 についてお話をうかがいます。「え、私の話は文献や公証があるというわけではなし、伝説に頼って話を申しあげます。伝説でやっときますと、その間にお手洗(おちょろず)池のこととか、あるいは月軒長者(つきのきちょうじゃ)のこととか、専門に一つの場所を調べて見ようかという人が出てくるかもしれません。その折りに確実な証拠があがるでしょう。その呼び出しに私は、すべて伝説によってお話を申しあげます。

 天狗の切り松というのは、今は飛行場の中になっております。

 

天狗の切り松(芦屋町記念誌より)

幸町から粟屋に通じる松原に、岡田の宮跡がありました。




昔ケ原(昭和15年撮影・説明も、安高團兵衛氏)

岡田の宮跡(芦屋の栞より)

神武天皇が一年二か月間ご滞在になった所で、いわゆる昔が原ともいわれています。その岡田の宮跡から二丁程行きますと、田の渕という所がありまして、国道の側に二まちばかりの田圃がありました。安高という家が一軒ありましたが、そこを古賀坂松栄寺と申しました。その前に大きな松がありました。これを天狗の切り松と申しました。大人が二人でだきまわす程の松で、一の松をスッと切り落し、その枝を乗せてありました。ここにも切り口があり、ここにも切り口があります。そしてシゲシゲと茂った立派な松でした。昔の人は天狗様が切って乗せたのだと言い伝えていました。

 なお岡田の宮跡ですが、その天狗の切や松から幸町に向って、二丁程の所にありました。その場所は普通の松とちがって、地山の松と申しまして俗にいう女松がいっぱい茂っておりました。神武天皇がご滞在になられたという場所でございます。私共が小学生の頃には、そこから種々の石片、敷石の破れなどが出土しておりました。そこが神武天皇ご滞在の場所だと言い伝えられています。昔はそこを高倉様ともいわれていました。

 高倉様といえば、岡垣に高倉神社がございますが、

高倉神社

芦屋の鋳物師が作った毘沙門天がある。

後に今の高倉へ移られたものと考えられます。と申しますのは高倉神社のお祭りには、必らず芦屋の浜崎の人達が参加しなければミコシは動かなかったものです。昔の宮日は戸せき宮日と申しまして、浜崎中の家が戸を閉めて総出で高倉様に参拝したものです。底井野から遠賀川の川西の地域の者は皆、高倉様の氏子ですから、芦屋から今の高倉へ移られたものではないかと考えられます。」

 つぎにお手洗池のことですが、お願いいたします。

-------------2015年3月追加写真--------------


この写真は安高團兵衛によって撮られた写真です。説明書きも本人によるものです。
お孫さんの安高吉明氏からいただいた写真です。下の写真2枚も同様です





お手洗池(安高團兵衛氏撮影)

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お手洗池は幸町と高倉様の中頃に、白浜稲荷様がありました。

唐津街道沿いに白浜神社(ここかなあ?)

(今は西浜に移っています)そこから西北へ二丁程の所の松山の中に、百四、五〇坪もあったでしょうか、なかなか、立派な池でございました。浅い池で年中泉水が湧き出していまして、洗濯によくきく水でした。昔は芦屋中から洗濯ものを担いで行ったもので、水に一、二時間浸しておくだけで、きれいになり、まことに不思議な池でした。またお茶の水にも大変よい水で、天気のよい日には茶道具をもっていって一日茶の湯を楽しんだものです。


芦 屋 昔 話 二

 御手洗池はその昔、神武天皇、神功皇后がみそぎをなさったところです。それが御手洗池の名のはじまりです。又此処には御手洗池の主と言って大きな亀が住んでいました。古老の話によると 昔は千丈の滝があって豊かな水があふれていたそうですが今はあとかたもありません。

 大城と大塚の古墳について、

大塚古墳(旧日本軍の関係者が見える)芦屋町記念誌より

大城は芦屋の本村といいまして芦屋の発祥の地であります。永い永い年月を得て今日の芦屋が出来あがったのであります。大城からは古いものが出土したそうですが大塚の古墳もその一つです。どの様な方の古墳であるかは私は知りません。

 つぎに月軒長者の住居跡ですが此処は浜口から大城に行く途中で(現在レース場の東北側の低い丘)月軒長者の跡があります。

月軒の丘(月軒廃寺跡)

あの跡地からは非常に多くの出土品が出ましたが芦屋小学校にその一部が保管してあります。月軒長者の玄関側の自椿の木の枝にこんな歌が書いてつるしてあったと言伝えられています。朝日輝く夕日輝く生ておいたら千貫目。

 つぎに祇園崎の松原、猪熊渡し、東祇園橋、西祇園橋、について、私(天外先生)が小学校の教員をしていました頃はまだ祇園崎には一軒の家もない美しい松原でした。よく生徒を連れて遊びに来たものです。今は全く面影もありません。今の祇園橋は西祇園橋と言っていました。この橋を渡って土手をこえると猪熊渡しがありました。大変便利でした。そして今の八木モータースの附近に東祇園橋があり祇園崎は当時は川の中にある島でした。こちらから眺める風景は一幅の絵の様でした。

 芦屋競馬場の事ですが今から六拾数年前(昭和二十七年から)に東町の松井敏さん方の裏の方(今の高浜町一帯)に広い競馬場がありまして仲々盛んでした。

又東町には遊郭が四軒ありました。東の方から東屋・えびす丸・梅善・三藤屋と立派なものがありました。

 つぎにつるが浜、別名月の海について、城山の東がわの一番川幅の広い処をつるが浜又は月の海と申しますが月の海は万葉集に歌ってあります。月夜の金波銀波の美しきは昔も今も人の心をとらえます。つるが浜の由来もその昔に

は多くのつるが飛来していたものでしょう。

 寺中町についてですが、今の安長寺から東を寺中町と言っていました。寺中町は空也上人の弟子達がいついた役者の町で東町一帯の事です。大変気位が高く芦屋役者の誇をもっていました。そのためか寺中町の者は他町内のものと結婚する様な事が少なかった様です。芦屋役者には今でいうファンが多数いたようです。

 千光院についてですが、此処には日本三大蘇鉄の一つがありまして今日も繁っています。叉江戸末期から明治にかけて有名な歌人梅窓吐香という方がいました。林田守治さんのおじいさんです。

 浜口八十八ヶ所の事ですが、戦前浜口と上の浜の途中にちょっと坂道になった所に浜口八十八ヶ所がありお参りが多かったですが今はどこに移ったのでしょうか、私(天外先生)は方々を尋ね歩きましたが、未だに行方が判りません。御存知の方は教えて下さい。

 つぎに禅寿寺についてですが、此処には有名な火よけの達磨がありましたが今は無い様ですね。それと毎年三月の御大師様はそれは大変賑やかなお祭りで近郷近在から善男善女が集って岡湊宮の境内まで見せ物、屋台、等で一杯でした。今日お大師様の復活が望まれますがなんだか遠い昔の懐かしい思い出となりました。

 松蔭亭についてですが之は禅寿寺の裏山に吉増屋のおじいさんが庵をつくったものでちょっと茶屋風の風流なものでした。宗像先生が江戸から帰省のたびにこの松蔭亭でよく遊ばれたそうで多くの歌が残っていましたが戦火で焼失しました。おしい事をしました。

 つぎに古松軒について、古松軒は私(天外先生)の師であります洞山先生の住宅で(今の町民会館駐車場附近)その呼名です。廻りをミカン畑に固まれた静かなお宅でした。

 合戦跡について(今の中学校、町民会館、中央公園一帯の松原の砂丘地帯)いつの頃のどの様な人の戦があったか知りませんが確かに合戦かあった事はまちがいないでしょう。昔から合戦の跡と言伝、えられています。あの丘の頂上に六つ程の戦死者の墓がありましたが、どこに移したものかほうぼうさがしましたがわかりません。その他にも一つ大きな墓がありました。伊勢の大輔さんの墓といわれていました立酪な墓でしたが、今はどこに移されたものでしょうか。おしい事をしたものです。

 (天外先生昔話座談会テープより)      つづく



郷土誌「崗」より 



大 正 懐 想

         小 川 健次郎 

 現在は飛行場の姿となってしまった、昔懐かしい三里松原の街道の白浜の三差路に、白浜お稲荷様があった。そのお社の前は、四季を通じて、農産物の朝市が立っていた。

大庭と言う茶店

 ここに集ったのは、主に岡垣方面の農家から、笊(ざる)に野菜を一杯入れて天秤棒で担い、急ぎ足で来る農婦、薪木や木炭などを牛馬に積んで売りさばきに来る人、米や麦の四斗俵を牛や馬の背に負わせたり、馬車に積んだりして来る農家の人たちである。ここで野菜を仕入れる仲買人や、芦屋の米穀商人との商談が始まって、取り引きがされるのである。

 また一方では、芦屋からは地元で獲れた鮮魚を笊に入れ天秤棒で担い、草鞋がけで走るように威勢よく岡垣の農村へ売りに急ぐ主婦たちがあった。

 このお稲荷様の前に大庭と言う茶店があって、やがて昼近くなるころには、芦屋の町で野菜を売って帰りの農婦や魚を売って帰りの主婦たちが、この茶店によって菓子などをつまみ、茶を飲んで一休みしていた。

 男の酒好きな人は角打(かくう)ちといって升に口づけして飲む方法で、二合升に一合の酒を注ぎ升(ます)の角から飲んでいた。

 また仲良しで親しい人たちは五合升に二合か三合の酒を注ぎ、交互に飲み合っていた。そんな人は、酒の肴に生豆腐にしよう油をかけて食っていた。イリコを二、三匹もらってそれをつまみにしていた人もよく見受けた。

 こんな情景は、ビールだ水割りだと言った現在ではちょっと見られなくなってしまい、古老のみが知る懐かしい思い出になった。

 作業するにも跣(はだし)や草履(ぞうり)、草鞋(わらじ)であり、やっと大正の中ごろゴム底の地下足袋やゴムの短靴が出回り便利になったが、作業衣は依然として和服に股引(ももひき)であった。

 自動車などはたまに通るぐらいの時代で、もちろんトラックやリヤカーさえも無く、物を運ぶといえば肩で担ぐか牛車、馬車に頼るしかなかった。もっとも交通機関としては、汽車や電車、汽船がすでに動いていたので、大量の貨物はこれらが運搬していた。

 私の生家は菓子製造卸業であった。少年のころのある春の日、父が得意先の菓子小売店に卸し売りに行くのに、菓子を積んだ荷車の後押しについて行った日のことが、不思議にも今だに忘れられない鮮やかな想い出になっている。

 早朝家を出て、例の白浜の大庭さんの茶店にまず一番に卸し、三里松原を通って粟屋、糠塚、山田、海老津へと回った。その頃の海老津駅前は五六十戸の民家が建ち並んでいるに過ぎなかった。

 海老津で中食し、休む暇もなく山田峠を通って遠賀川駅へと向った。昔は今日のような完全に舗装された道路ではなく、道幅は狭く、砂利敷の道で凸凹はあり、雨が降れば所々ぬかるみとなって、荷車を引くにも大変な苦労であった。遠賀川駅前も五、六十戸の民家が道路の両側に建ち並び、今とは比較にならない寒村だった。

 広渡、松の元を経てやっと芦屋の町に帰りついた時は、家々に明るい灯が点々とともされていた。行程は二十五キロぐらいあっただろう。父親が一家の暮らしを支えるのに苦労していた姿が今も胸に迫る思いがする。

 今、時折遠賀川や海老津に行くと、昔の面影は、ただ駅の一部分のみ残り、あまりの変貌に驚き、実に隔世の感がする。

 そのころ、粟屋の篤農家で「粟屋聖人」とも「金時計」ともあだ名されていた安高団兵衛さんという人は、雑誌「主婦の友」にも掲載されたほどの人物であった。

 金時計の由来は、厳しい軍隊教育を日常の私生活に実行して、片時も懐中時計を離さず、時間通りに行動して、時間を重んじ厳守されたので、こんなあだ名がついたものと思う。

 毎日の気象や農作業のことなど、その他細大もらさず何十年もの間克明に書きつづった人であった。安高さんは、軍隊から輜重兵伍長で除隊になった人で、在郷軍人会などある時には軍服に長靴を履いていた。

 当時の農作物の肥料は、人糞や尿が主であったので、芦屋町内はおろか八幡方面までもくみ取りに行っていた。馬車に人糞尿入れの桶を一杯積み、薄暗い夜明けに出発して八幡でくみ取った糞尿を満載して往復五十キロの道を通っていた。

 この安高団兵衛さんは、この往復の道を馬の手綱をとり片手で二宮尊徳のように書物を読みつづけて歩いたので、粟屋聖人とも呼ばれたものではあるまいか。然し考えてみれば、現在のような交通事情では危くて、とてもできることではない、昔はそれほど呑気であったとも言える。

 団兵衛さんは山鹿の歌人秋山光清氏に私淑して和歌の道を学び、先賢顕彰会を発起するなど、篤農家とともに文化人でもあった。

 当時の農業は人糞尿は重要な肥料であったので、昔から農家と町の家とが便所の汲み取りを契約し、年末には札として米をやる習慣になっていた。私の生家は雇人を加えると十七八人の大世帯であったので、尾崎村の高山彦一さんという人より年末には餅米一俵半貰っていた記憶がある。その高山さんの少年時代、尾崎村から芦屋尋常高等小学校へ通学していた頃(推定明治三十二三年)登校する時、空の肥桶をかつぎ便所汲み取先の家に預け、学習が終って帰りに汲取って片道五キロ以上ある道程を、角結(つのむす)びの草履をはいて重い荷を天秤棒で抱いで通っていた話を聞いた覚えがある。

 大城の農家でも協同で枝光の旭硝子工場あたりまでも川ひらたで糞尿をくみ取りに行き、浜口の川辺から大勢の人が肥桶をかついで運んでいた。

 農家にしても、今は化学合成肥料や殺虫剤など種々ありすべて機械化されているので、昔のような労力を要さないよき時代となっている。大正時代までは、ほんとうに汗水たらしたつらい苦労であったと思う。

 漁業にしても、凪(なぎ)の日の早朝、芦屋の「松政」と「田中屋」という二つの魚市場で、漁船からあがったビチビチはねる鮮魚を仲買人が買い込んで、直方の魚市場へ荷車で運んでいた。

 遠賀川土手を片道二十キロの凸凹の道を走るような勢いで錬(せ)りに間に合うように荷車を引いていた人や、笊に鯖蜂など入れた荷を天秤棒でかつぎ、身体で拍子をとるように、川筋の中間や植木方面まで行商に行った、主婦の人たちの逞しさ、手ぬぐいかぶりの姿が今でも鮮かに眼に浮ぶ。

 今、振り返って当時を考えると、あんな重労働によく体力が続いたものと不思譲に思う。

 当時、一般の人々は卵や牛乳は病人でなければ食べられない時代で、海岸であるから魚が獲れた時だけ、たんばく質をとることができるぐらいで、今にしてみれば驚くばかりの粗食であった。

 もちろん医療も十分ではなかったが、栄養不足と過労のため、五十歳にもなれば現在の七十過ぎの人よりも老化して、早くこの世を去っていた。

 子供たちにしても、栄養不足で、冬になると「霜焼け」「ひび」「あかぎれ」に悩む子は多く、また十八、九歳の青春期に「かっけ」や「結核」にかかり、あたら若い命を亡くす人が多かった。

 その時代の多くの若者は、郷里芦屋では求めるに職はなく、職を求めて大都会へ、遠くは朝鮮や満州大陸の新天地へ青雲の志を樹て旅立ったが、病に斃れ夢破れた者も多かった。

 今、一般の家庭は子供二人ぐらいであるが、当時は五、六人の子持ちは普通であったので、親の負担は大変をものであった。

 現在は、飢えを知らない豊かな生活をしているが、明治、大正・昭和と苦誰の道を生き抜いてきた人にとっては、毎日がぜいたくなごちそうを頂いている思いがする。

 あの時代の娯楽といっては、お祭りか芝居に活動写真(映画)ぐらいであった。

 活動写真が始まったころは、カーバイドの照明で映写していた。フィルムを手で回していたので、よく切れることが多かったが、珍しいのでよく見に行った。

 大正十年ころであったか、芦屋に映画の常設館ができた。現在金屋の児童公園になっている所(元芦屋郵便局跡)に「楽栄館」といって、芦屋出身で美術学校出の晩年冨士山ばかり描いていた大森桃太郎という洋画家の家が経営していたが、一、二年ぐらいでやめてしまった。

 芝居の方は、大国座という田舎には本格的な劇場が幸町にあった。地方回りの歌舞伎も来ていたが、上方役者の有名な芸人を千両役者といっていた。その千両役者の岩井半四郎の一行が大国座で上演したことがあった。大変な人気で近郷の人々も大勢入場したのを覚えている。

 当時は顔見世という習慣(ならわし)があった触れ太鼓や鉦(かね)を打ちながら口上を言う披露目(ひろめ)屋、三味線の連中を先頭に、出演する役者を乗せた人力車が四、五台後に続き、街の辻々に停っては、今日の芸題はと盛んにピーアールしていた。家の中に居る者も戸口に出て見ていたことが今も懐しい思いがする。山鹿にも顔見世は行っていたが、その頃は渡船時代で、一坐では全員が乗れないので、折返し芦屋の渡場に着けて残りの半分を乗せ、山鹿の渡場で先着の者と一緒になって町回りをしていた。

 現在のように印刷の広告紙もなかった時代で、これが唯一の客寄せの適切な方法であっただろう。今考えてみると興行音にとっては大変な苦労であったと思う。

 大正の中ごろから祭文芝居というのが多かった。浪曲劇とでもいうのか、役者が台詞(せりふ)以外は浪曲にあわせて手振り身振りするもので、こんなものがかかると、一発の花火で開演を合図するし、ナンドン屋が町回りもするので、その当時は景気よく操業していた大君炭坑の人たちも、どっと押しかけたものである。

 現在の若者が、歌綿曲だニューミュージックだとやっているように、当時の若者は浪曲、端唄、都々逸とか槍錆であったと思う。西洋文学が盛んに導入されていた時であったので新しい連中には「ゴンドラの唄」とか「ヴェニスの舟唄」「カチューシャ」などが愛唱されていた。その頃全国的に大流行したものに、鴨緑江節とか安来節がある。今カラオケ大会があるように、大国座で安来節のコンクールがあったこともある。

大國座

 もう一つ流行したものに筑前琵琶がある。芦屋と山鹿に先生がいて、青年男女が熱狂して習ったものである。

 今一つ懐しい思い出は連鎖劇である。新派の劇中に、活劇のところは暗くなって映画になるのである。映画といっても、もちろん白黒の無声映画であるが、例えば芦屋橋の上を迫いつ追われつの立回をしたり、山鹿の弁財天のがけの上から女を結めたセメント袋だるを落としたりするところなどをロケーションして、そのフイルムを映写して、灯がついてスクリーン幕があがると舞台になって、こわれたセメントだるから出た女の役者が生き返って、それからまた芝居になるという具合いで、芝居と活動写真を継いだものだから、連鎖劇と呼んだのであろう。「堺軍平」と「水野観月」の二つの劇団が交互に来演し、大入満員の盛況であった。女優山田五十鈴の父山田九州男は芦屋に来演したかどうかは知らぬか、この連鎖劇をやっていたと聞いたことがある。

 今こうして回想してみると、茫々として、過ぎ去りし七十年前と現在の暮らしを比較して、実に雲泥の差があり、今日ほど恵まれた時代はないとも考える。

 あの戦中戦後の深刻な食料難の時代を思ってみても、今の豊かさを有り難いものと常に感謝しなければならぬ。それさえ忘れてしまっている。

 明治、大正、昭和の戦前戦後。国民の堪え忍んだ心が、今日の日本の隆盛の礎をなしていみのではあるまいか。

 そんな意味においでも、時折往時を回想することも、あながち無意味ではないと思う。



芦 屋 千 年

向 井 秀 雄 

 「あしや」という地名をしるした、現存する一番古い文献は「散木奇歌集」という平安貴族源俊頼の私歌集である。俊頼は字多源氏、小倉百人一首「うかりける―」の作者だが、承徳元年(一〇九七年)白河院政のはじまって間もないころ海路ここへ来た。彼の父親、大事権帥経信が任地で八十二歳で没し、その葬儀をすませたあと都へ帰る道すがら、船をとめ、風景に寄せてその悲しみを詠んだ四首の歌が、ことばがきとともにこの集に収められている。芦屋の歴史資料として注目したい個所は、俊頼が船中から「琵琶法師の琵琶をひけるをほのかに」きいていることと「浜に綱の見ゆる」さまに目をとめていることである。

 全国を流れ歩いて源平の悲歌を語った琵琶法師のことはたれでも知っているが、これはまだ平家の栄華すら、はじまっていない時代である。法師たちの弾じたのは、今様ででもあったろうか。ともかくそういう芸能の徒がすでにいて、川のほとりには、彼らを宿泊させる余裕のある家屋もあったことがわかる。そして海岸か川岸かに綱が干してあったということは、ここに漁民も住んでいたことを証拠だててくれる。しかし俊頬は上陸もせず、船中で苫をひき寄せて雨をしのいでいる。さびしげな船着場という印象が先に立つだけで、このあたりの集落がどのような形、どのような規模であったか、これだけではわからない。

 この俊頬の来泊からほぼ四、五十年あと、鳥羽院政期(十二世紀なかば)と推測されるある年の秋のある日の「葦屋津」の姿が「本朝無題詩」という漢詩集の中に、もう少しはっきりと描きとどめられている。

(無題詩とは課題詩でないもの、自由に思いをのべた詩という意味で、関白忠通の命で、当時の代表的詩  人三十人の自由作品三百七十首をあつめたもの)


 その中で九州出身と見られる釋蓮禅という憎がおのれの老境失意の心情を、山鹿岬の沙岸の松根だとか、田んぼの稲穂だとかいった点景によせて、切々と美しくうたいあげている。そこに当時の津の実況が、期せずして具体的にとらえられている。着葦屋津有感と題する七言律の第三句から第六句に、

 

向津上下客舟集 旅人をのせた舟が津に向って、川を上下しなから集っている。

分岸東南民戸重 川の両岸には東側も南側も、民家の屋根が重なって見える。

土俗毎朝先賣菜 土地の風俗で、毎朝野菜売りがやって来る。

釣魚終夜幾焼松 夜どおし魚釣舟で、たくさんの松明をたいている。

とあるが、これらの描写から推測できることは、ここが明らかに漁村ではなく「みなとまち」であることだ。東と南とに同時に相当な集落を見たというのだから、その視点となった泊地は、ほぼ今の芦屋橋付近であり、東岸とは今の山鹿と同じところ、南岸とは西浜、中ノ浜あたりであろう。旅客をのせた舟の往来が、かなりのにぎわいてあったことは、ここに舟運を業とした人たち、つまり「非農民」という古代律令制社会にとって、ワクをはみ出した人たちが、根をおろしていたことを物語る。

 さらに夜通し漁火をたいて魚を獲る漁民も入りまじって住んでいたこと。また毎朝、近郷から野菜をかついで売りに来る農民がいたこと。注記によれば黄瓜と紫茄だとあるが、市日でもないのに、毎日こういう振売りをしていたとすれば、津の民家へ売るにしても、停泊中の舟へ売るにしても、物々交換でなく銭貨で売り買いしていたと見なければならない。平安末期といえば、輸入宋銭が都を中心にようやく地方にも流通しはじめた時代だ。このあたりの、この時代の農村でも、貢納と自家消費のほかに、それを売って銭を得るだけの余分な作物が生産されはじめていたのだ。農耕技術と生産性の向上が、古代的な、調帝の民をその境遇から一歩前進させていたことを証明してくれる。

 ちょうど保元・平治の乱の直前期の葦屋津に生きていた人たちの暮しぶりが、このように詩人、歌人の目で描きとどめられている。京故以外では、ほとんど例のない貴重な記録といわねばならない。

 さて、俊頼、蓮禅などが見た葦屋津の姿は、このままもう少し前の時代に、さかのぼらせることができるだろうか。それにしても「あしや」の名が、この二つの詩歌集以前の文献に全く見られないことをどう理解すべきだろうか。

 社会・経済史の常識からいえば、古代社会は農耕と漁労という一次生産以外には、せいぜい手工業的家内生産があっただけである。京・大宰府のほかでは工商専業の民というものはほとんど存在しえなかった。国中どこまで行っても、ただ農家ばかりであった。

 十世紀のはじめ延喜年間(九〇五年)に令の施行細則として定められた「延喜式」と承平年問(九三〇年代)に編述された「倭名類聚抄」などによって古代末期のこの地方の様子を推測してみよう。

 遠賀(おか)の郡(こおり)のうち大川の西岸は、い主の芦屋・遠賀∵岡垣三町の区域を通じて、内浦(うつら)垣前(かきざき) の二郷があっただけだ。一郷は五十戸で編成されたのだから、あわせて百戸前後がまばらに住んでいた。川の東岸、いまの芦屋町山鹿から若松区全体をふくむ山鹿島も一郷五十戸。漁業と製塩とそれにわずかの田畑を耕す人々がいたに過ぎない。当時の庶民の戸籍簿から、一戸平均二十人と推算してみても、このあたりは人烟きわめて少い地であったと見ていい。人麿も「神代し思ほゆ」と詠んでいる。  (万葉集巻三)

 このうち垣前・内浦二郷百戸の民家が、多分郡司の館をふくめて、いまの岡垣町青木・内浦を中心に散在していたらしいことは、外の資料からも推定されるし、当時の農具や水利技術からいっても、まずあのあたりの山寄りの平地にしか農地は得られなかったはずである。海風が強く砂丘ばかりがうず高く連る、いまの芦屋町域は、たやすく人の住めるところではなかった。

 では当時「おかの津」と呼んだ港津は、どこにあったのだろうか。太宰府と京を結ぶ当時の官道――駅路(うまやじ)は、宗像の津日から内浦・垣前を通り、大川を渡って次の夜久(やく)の駅(八幡西区西南部)へ抜けた。その渡し場を兼ねて島門(しまど)の駅があった。道順と地形からいって、その渡し場は今の遠賀町鬼津・若松の岬状台地のほとりにあった可能性が最も高い。そしてここに大軍府所管の舟を常備した記録があることから見ても、この島門の駅こそ郡の津、すなわち「おかの津」であったと考えるべきだろう。その浜つづきに当るいまの芦屋町浜口の小丘陵に、当時の郡司の寺であったと思われる廃寺跡が見られること、また岡湊神社が吉木の高倉神社の下宮として、もとこのあたりにあったという伝承を持っていることも、その裏付けとなろう。

 この駅路はいわば当時の国道一号線ではあったけれども、もっぱら官人の往来のための道路、兵部省の管理する軍道であって、日々の交通量は取るに足りなかったはずである。時に大宰府に向って貢納の荷を背に歩む農民の姿や、また当時九州でとくに多かったという逃散浮浪の徒の横行が見られたにしても、彼らが路用の銭など持っている時代ではなかったから、舟付場に物売りの店が並んでいるということはありえない。島門の津がいかにさびれていたかということは、官舟二隻がくち果てて放置されているという公文書があることからもうかがえる。(三代實録、貞観十五年五月十五日)そういう「おかの津」と、のちの芦屋の津とは、その性格も、あった場所も全く別ものである。「おかの津」を単純に、芦屋の津の古名だと考えるのは正しくない。

 十世紀以前の文書、記録に「あしや」という名が見えないのは、やはり新しい名を帯びた集落が、新しい場所に誕生したのだと見るべきだろう。おそらく、島門のあたりの、風土記にいう「大江」が、次第に砂に埋って、泊地として不適になったというフィジカルな原因とともに、王朝政治の衰えるにつれて、官道の渡し場、舟付場の役割りも終りの日を迎える、という事態が、九・十世紀ころに起きた。その一方で、律令体制から見れば、その反逆者・破壊者である私営田領主、公領の横領者1粥田氏や山鹿氏の一族が、この川筋の上流、嘉麻・穂波・鞍手の各郡に、広い荘園をかこいこむにつれて、京の権門へ私的にその貢納物を輸送するという新しい流通路が必要になってくる。川筋を川舟で、そして川口で海船に積み替えるという作業が、当然ここに水主・舵取など輸送労働に従事する人たちを生む。農地を離れ、荘園管理者の扶知で暮す人たち。それ以前の古代社会には存在しなかった人たちである。彼らの住まい、芦の苫屋が次第にこの川口の漁家にまじって数を増す。

 憎蓮禅の見た民家の屋根の重なり、耳にきいた野菜売りの呼び声は、そういう誕生間もない芦屋の新しい風物だったのだ。芦屋千年の歴史はこうして始まったと考えられる。


2014年7月6日追加分

芦屋の海岸で全国でも今は珍しい浜ボウフウという植物を発見しました。
明治大正のころ芦屋の料亭ではボーフといって酒の肴に珍重がられていたそうで、せり科の植物です。県によっては絶滅危惧種にも指定されている植物です。




このように僅かな生息しか確認されませんでしたが大正13年発行の「芦屋の浜」という刀根為次郎著の中にも出てくるボーフを見つける事ができました。

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