千光院跡 一(旧東町)

 前に戻る

千光院跡

岡湊神社と前に道を挟んで千光院がある。民家の庭みたいになっているが問題なく見学できる。


今も残る大蘇鉄


 芦屋小学校創設の地

芦屋小学校(尋常小学校)

 明治六年(一八七三)十一月十五日学制の趣旨をうけ、旧千光院(船船町区)を仮校舎として学校が開設された。芦屋小学校の前身である。明治三十五年(一九〇二)当時の芦屋尋常小学校長山田有成は、この学校の様子を次のように記している。

 黒山敏行はじめ職員三名、生徒は一〇〇名くらいで六、七歳より十六、七歳の者がいた。修業年限は八ケ年、上下二等に分かれ、授業時間五時間、科目は綴方、習字、作文、算術、修身、上級で地理、理科の一班を加える。生徒は各自机と文庫を持ってきて、座って授業をうけた。教授は注入法で、教師の行きとどかないところは上級生が補助した。これらの経費は村費より支出した。(要旨)

 しかし、これは開校直後の様子だけでなく、教育令下明治十九年(一八八六)ころまでのことが合わせ記されているのではないかと思われる。開校当時はもっと寺子屋的なものであっただろう。

 明治八年五月、旧千光院から市場に移り、芦屋小学校と称した。このとき田中屋の家を借りて学校としたため、田中屋学校とも呼ばれていたらしい。九年四月には岡湊神社の常設舞台を校舎として、教室一棟を増築し、新しく岡南学校が開設された。この学校は明治八年県属荒木元が遠賀郡区長心得として赴任したとき、芦屋に高等小学校程度の学校がなかったので、副区長矢野銕之助とともに設置したものであるという。師範学校卒業生片山鎮を教師として招き、九年四月二十四日、県令渡辺清出席のもとに開校式をおこなった。十二年(一八七九)市場区の芦屋小学校を船頭町区にうつし、阿南学校は合併された1が、十九年(一八八六)の小学校令まで、岡南小学・尋常小学と二つの呼び名が同時にみられることから、合併後も古い型が残り、岡南小学では中・高等科、尋常小学では初等科程度の授業がおこなわれていたのではないかと思われる。(芦屋町誌)

 22 千光院跡 一(旧東町)船頭町ニー二〇

 千光院は岡湊神社宮司の坊なり。鶴林山千光院祇園寺と号す。

 高倉の真言宗神傅院の末なり。今は共に廃寺となれり。院内に大師堂・大日堂・弁財社・鐘楼・其他工作物が有りしが、明治の初年神仏混清を禁ぜらるゝにあたり、大師堂・八十八ヶ所の仏像及び五重の塔は禅寿寺に大日堂は海雲寺に、弁財天は寄附者の子孫にそれぞれ移された。(遠賀郡誌)

 千光院は現在岡湊神社宮司林田氏の居宅になっている。

◎千光院の大蘇鉄 (県指定天然記念物)

 この蘇鉄は寛永十四年(一六三七)天草四郎時貞が島原に乱を起した折、老中松平信綱は将軍の命を受け、板倉・鍋島・細川・黒田藩らの十二万四千余の兵により鎮定した。特に黒田蒲の奮戦により原城の本丸が落ちたので、黒田藩の将兵は帰港の折、原城内にあった蘇鉄を船に積んで持ち帰えり、出陣のとき戦勝祈願をした所である岡湊神社の境内に植えたと伝えられる。その後延宝年間こゝに千光院が建立された。この蘇鉄は幹の周囲三・六メートル高さ三・七メートル枝数四十本余雌樹で多数の実を生じ、豊後日出(ひぢ)の松屋寺(しょうおくじ)及び泉州堺の妙国寺の蘇鉄とならんで、我が国三大蘇鉄ともいわれたことがある。はるばる海を渡って来て三百四十年余の歳月をすぎた今日なお、依然として衰えを見せず苔むした巨体は、益々その威を加えてそこはかとなく移りゆく世をながめている。

 昭和三十二年六月、島原市猛島(たけしま)神社入江宮司・同神社総代洒井貫一の両氏が千光院に来訪され、この蘇鉄の分譲を請われたので、早速有志とはかって「蘇鉄の里帰り式」を行い数株を島原に送った。其の一つは原城にも移植してある。

(芦屋の栞)

◎アヤメ科の江戸菖蒲 −

 岡湊神社の宮司林田守邦さんが十数年前、東京の明治神宮から株を分けてもらい育てゝいるもので、竜の手の格好をした珍種「竜の爪」 や、卵形の花を咲かせる「玉宝達」など、六十種におよぶ百四十鉢が紫・黄・白と清楚な花が美を競いあって、訪れる人の目を楽しませてくれる。九州に多い大輪で豪華な「肥後菖蒲」とは異なり、小柄で上品な美くしさが特色であり、六月中旬頃が見ごろである。

(西日本新聞)