粟屋排水路新設竣工記念碑

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芦屋粟屋排水路新設竣工記念碑

上の写真は浜口方面に向かって撮る。左手は芦屋飛行場です。

その昔は唐津街道が白い建物の先から飛行場内(当時は松林)を通り
芦屋小学校方面に通っていた。

宗像方向を撮る

2015年2月15日
安高團兵衛氏のお孫さんに当たる安高吉明氏に

お会いできましたので報告します。

吉明氏は農業を営んでおられます。

イオンのわいわいファーム

http://homepage2.nifty.com/atakanouen/

への出荷など大変大きな農家でした。たいへんやさしそうな方で親切に
対応していただき、
楽しい有意義な時間をすごさせていただきました。
下の写真の方です。

安高吉明氏

吉明氏から團兵衛氏に関する貴重なお話や写真を見せていただきました。
安高團兵衛氏は排水用地として自分の土地を国に供出されたそうです。その土地は貴船神社横の溜め池の位置だそうです。


安高團兵衛氏寄進の土地

mまた、お爺様の團兵衛氏は、メモを取ることに関してでも半端ではない事が良くわかる逸話をお話くださいました。農作物を八幡方面に届ける道すがらお店で買った食べ物などの品名、値段までメモっていたらしい。それも同行した人の買い物までメモっていたから半端ではない。
文字を見せていただいたが、これがまた筆で老眼の私の目ではメガネかけても見えないほど小さく書かれて
あった。



安高團兵衛氏と本人直筆の文字


当時の農作業の團兵衛氏等


安高團兵衛氏と奥様のリキノ様

ほかにも貴重な写真がありますので、お出しするように考えています

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 碑 文

粟屋排水路ハ、昔ヨリ北方国有松林内ノ低地二流水シテ居タガ、昭和十五年芦屋飛行場建設起工トナリ、国有林ヲ用地トシテ地均シ、工事ノ際排水路ハ埋没サレ、其後大降雨ノ時ハ粟屋区内凹地約四千坪ガ浸水シ、四〜五個所ノ宅地モ浸水、町里道モ約六十糎浸水セリ。此被害ヲ無クス為、安高團兵衛ハ町長県知事二陳情シ、遂ニハ農林省大蔵省二陳情請願シテ此排水路新設工事ヲ施行、昭和三十四年四月二十四日竣工シタリ。排水路ハ内径八十糎ノヒューム管ヲ二百十メートル埋設、工事費壱百七十六万円ハ国費支辨ノ申請、資料並ニ運動費等ハ安高自辨、排水流水土地約ニ反歩余ハ安高團兵衛所有地ヲ無償利用セシメタリ。

     昭和四十二年二月建碑  安高 團兵衛

安高 團兵衛

粟屋に生まる。家業は農業。自給自足、労力の調整、日夜精励を信念とし、夏でもひる寝一つしなかった篤農家である。時は金なりでなく、時は命なりといって各種の会合にはすべて時間厳守を励行した。農業技術の改良普及、多角農業を奨励して、商業的農業の経営に努力した。人は感謝の心をもって生活の基礎とすべきであると説いていた。また公私各団体の役員に推され、数々の委嘱をうけて努力した。飛行場の設置による、三里松原伐採にともなう防風林被害にたいする国の補償費問題、また畑地潅漑工事、粟屋排水路などの建設工事には、献身的な努力を惜しまなかった。また日本陸軍飛行場建設の際、大城において昭和十八年十二月二十三日発掘された大塚古墳の保存、移築、復元に大いに尽力された。昭和四十二年三月十九日七十歳で没した。(芦屋町誌)

お手柄團兵衛だんべえさん46年の日記

(広報 あしやより 文:歴史民俗資料館 山田克樹氏)

芦屋に篤農家ありき

 継続は、力なりというお話です。今回の主人公、安高團兵衛氏は明治29年芦屋町粟屋に生まれ、昭和41年に亡くなった人物です。氏は農業技術の改良普及・多角化農業を実践・奨励した篤農家でした。
 それだけではありません。生涯を通して細密膨大な量の日記・記録などをつけ続けた人でした。家族の方は『メモ魔・記録魔』だったと語っています。日記・出納簿・天候統計表などのほかにも、睡眠時間統計表などもつけ、自家の農業経営の指針としていました。

耕作地の危機に日記が役立つ

 昭和27年、綿密な記録群がその真価を発揮しました。

 安高氏が農業を営む芦屋台地は、戦時中陸軍によって飛行場ができて以来、歴史ある防風林は開かれる一方でした。松林は伐採され、響灘からの強い風にさらされるようになり、耕作地は大きな減収となりました。
 そこで、昭和26年に芦屋地区防風林伐採被害者組合( 組合員1.000人)が結成され、27年夏、補償交渉が始まりました。しかし、減収の訴えには根拠がいります。きちんとした統計資料を求められた組合は、減収の裏付けに困り果てました。この急場を救ったのが安高資料でした。

 この資料を根拠に陳情を粘り強く繰り返し、ついには国を動かすまでになりました。そして伐採の補償事業として畑地かんがい施設が完成しました。組合の努力は報われたのです。

「耕作地を守れ」再び日記が役立つ

 それから50年の年月が流れました。

 畑地かんがい施設が老朽化して不具合が多くなり、改修が必要となってきました。事業へ国の支援を引き出すためここで再び安得資料が光を浴びました。国には50年前の記録が残っていなかったからです。
 幸い、氏の膨大な記録のほとんどが福岡県地域史研究所によって保存・整理されていました。50年前の国との交渉記録がまとめられていたものも発見されました。これらの資料の力もあり、畑地かんがいの全面改修は許可されました。
 安高團兵衛氏が大正8年から始めた日記は、地元の農家の急場を再び救っただけでなく、その継続性・信頼性から歴史学者からも注目を集めています。