大統社工業塾 芦屋町誌 大統杜・大統杜工集塾 大正七年(一九一八)吉田三郎は芦屋町金屋に弘道赤心鉦を創立して、遠藤正治・守繁蔵をまねいて青少年の訓育にあたっていたが、十二年同町中ノ浜に柔道場弘道館をひらいた。吉田は明治三十一年(一八九八)芦屋町船頭町に生まれ、芦屋尋常小学校・同高等小学校に学んだのち、東筑中学校(現在北九州市八幡西区折尾)に入り、同校中退、上京して荏原中学校に入学した。大隅桂巌に師事した。大正四年には東京講道館に入り柔道を修業した。人材の養成を終生の仕事としたので、郷里芦屋町に私塾を創立し、また柔道場もひらいたのである。大正十一・十二年にかけ西南学院(福岡市)・小倉師範・門司鉄道局・門司警道会の柔道教師もつとめているが、以下吉田三郎の年譜資料(吉田三郎歌集「潮」所収)によって略記する。 -------------------------------------------------------- 昭和三年 大統社工業塾を芦屋町中ノ浜に創立、奉天大統社創立(奉天市は旧満洲国に在った都市で、現在の 瀋陽市) 〃 四年 三月芦屋町大火災、岡湊神社・禅寿専炎上。 山鹿秀遠建碑、岡県主熊鰐宅跡碑。九州山口剣道大会(第一回)、北九州小学生相撲大会(第一回)を大統社工業塾で主催(五年も行なう) --------------------------------------------------------- 東京大統社を小石川区(現文京区)水道瑞町に移転 日本主義運動につとめた大統社の綱領は、次のようである。 三 大 綱 領 一、大統社ハ光輝アル我ガ国体宣掲ノ為メ決死殉難ノ志士ニヨリ結パレタル血盟ナリ 二、大統社ハ弱小亜細亜諸民族ノ大同団結ヲ策シ奪ハレタル亜細亜ノ奪還ヲ期ス 三、大統社ハ一切ノ行動世俗ノ毀誉褒貶ヲ顧ミズ只天ノ照鑑審判ヲ俟ツ 大統社工業塾の修業年限は四カ年、第一期生は六名、第二期生は約二五名、第三期生は約五〇名であったというが、芦屋の工業塾には門司・中間・赤間・福岡など地元地方をはじめ佐賀・鹿児島など各方面からの入塾者がいたという。 工業塾の塾生活は、朝五時起床・一時間剣道・食事・掃除、午前は学科・精神訓話などで、午後は主に木工をやり、五時でやめて剣道一時間、夜も学科、就寝は九時と定められていた。 時間はすべて太鼓で知らせていたという。 試胆会などもおこなわれ、また旅行にゆくこともあった。 塾の製品の即売会なども開催された。 ----------------------------------------------- 祇園社境内で催されていた九州山口剣道大会や北九州小学生相撲大会は、年中行事として多くの人を集めていた。 頭山満らも芦屋大統社を訪れているが、大統社入社試験の鉄則には第一条に「剣道心得の有無に関はらず本社員と試合して最後まで攻撃心を失はざる者」と、書かれている。 昭和四年(一九二九)三月十三日夜の芦屋大火のときには、大統社工業塾の者たちは、老幼婦女の避難者を川船にのせて運び、工業塾にうつして安全をはかるなどして各火事場で活動した。 罹災家庭に必要な狙(まないた)・塵取り・食卓などを急造して各家庭に配ったりもした。 大統社工業塾の某は「芦屋大火の記」という一文のなかで、工業塾生が不眠不休の努力をしたことに対して「大統社の精神に生きて、工業塾の生徒たちは、郷土復興の為に全身全霊を捧げたが、この犠牲奉公の大勇猛心こそ実に、大統社一派の硬教育の真価の発現でもあった」と、記している。
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吉田も翌五年、大火後の情勢を心配して「芦屋町民諸君に告ぐ」(四六版八頁)を全町に配布している。また、禅寿寺を建立した。吉田は昭和十九年芦屋町船頭町の生家に帰居した。二十年以後の略歴は次のようである。 昭和二十年 芦屋町高浜にて創農 〃 二十八年 福岡県モーターボート-競争会理事、酒類小売店「花屋」を開店 〃 三十二年一般運送業を開業、建設用骨材の採集販売 〃 三十四年 年初、十二指腸潰瘍にて九大付属病院に入院、即日手術、以後療養生活に入る 〃 三十六年 事業を解散 〃 三十七年 福岡県粕屋郡古賀町大字古賀に居住 〃 四十四年 二月二十四日没(七二歳) 昭和四十五年(一九七〇)二月二十四日、知友・門下生らによって芦屋町鶴松裏地に墓碑が建立され、弘道赤心社・大統社・大統社工業塾および花屋関係物故者を合祀、墓前で合同慰霊祭がおこなわれた。同日「潮」(聴潮・吉田三郎先生歌集、再版)が発行されたが、この歌集の序に門下生大庭勝一は次のように記している。
…(略)…師は剣魂歌心の人であった。師が事にあたって墓地に勇猛突進する時、人はその面を仰ぐ勇気を 阻喪し、低頭して説に屈した。しかし温顔は春の海の如くであった。 師が歌に感懐を托す術を得たのは昭和の初期である。漸く熱心に作歌したのはその畏友三浦義一氏が歌集「当観無常」を編んだ後である。唯憾むらくはその多くが散佚した。玄に大方の目にかける機会を得たものは、たまたま手控えの帖に誌されたるた めである。 …この帖の巻首には平野国臣の歌える「君が世の安けかりせばかねてより身は花守となりましものを」の一首が記されている。蓋し師の真意であろう。師が事に触れ、時に応じ、我々に訓誨した言の一に「先人に一歩を加えよ」と云うがある。 人は生れ、活き、死ぬものである。しかし人生には意義があらねばならぬ。師の誨之に酬ゆるところなく、今日尚お碌々たる我らを、門下の末輩として愧じるものである。 歌集「潮」には昭和十六・十七・十八年の歌が収められている。「坐るより外にあらじな我道は神定め給う君定め給ふ」「天地独りせおいてたつ人のいみじき姿眺めて居りき」「放漫の自浪寄する岡の辺に駒をうたせて国を思へり」「ふるさとの軒の松風潮の声鶏のねに夜は明けそめにけり」「あわれ我が善しとする事為す時は悪もものかわと教えし祖父様」「一筋の道より外になかりけり龍のあざとの玉をとる道」(原文のまま)など紛一三〇首の歌がある。 |