月軒廃寺跡(浜口廃寺跡)

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9 月軒廃寺跡 − 浜口町

芦屋案内記より   

 以前から礎石が表土に転がり、また古い布目瓦が多く出土することなどから、廃寺跡ではないかといわれていた。昭和五十四年一月下旬から発掘調査を行なったところ、奈良時代前半から平安時代にかけての瓦が多く出土したが、堂宇・遺構の検出ができず、廃寺跡と断定するまでには至らなかった。この発掘調査では弥生後期のものと思われる住居跡が発見された。また弥生時代の壷やかめのかけら・砥石などが出土した。 (広報あLや)

※月軒長者(伝説)

 芦屋町のはづれ浜口地区に、「つきのき」という字名(あざめい)が現在でもある。此所に昔朝日長者又月軒長者とも呼ばれる筑紫路きっての大金持がいて、一人娘と暮らしていた。長者はその娘の他に頼る者もなかったので、大変に可愛がっていた。ところがその娘はふとしたことから眼病にかゝり、あらゆる手だてをつくしたが、ついに失明してしまった。長者と娘は悲しみに打ちひしがれたが、この上は神仏の加護に拠る外はないと、娘は近くの薬師山堂塔寺に願をかけ、雨の日も嵐の日も一日も欠がさず祈ったところ「寺内に湧きいずる井戸の水で目を洗え」とのお告があったのでその通りにしたところ、ある朝とつぜん目が見えるようになった。霊験のありがたさに娘は発心して仏弟子になり、父娘とも再び楽しい日々が続いていたが、どうしたわけか娘はとっぜん目を洗っていた井戸に身を投げて死んだ。娘の死は未だに謎である。これが古くからの言い伝えであるが、月軒長者が何者であったかわからない。(芦屋町議・芦屋ガイドブック)

薬師山堂塔寺

本尊は薬師如来。永録年中大友宗麟の兵火により廃絶した。伝説月軒長者の話にある古井戸は、現在も「目洗いの井戸」と言い伝えられている。寺跡は今荒廃しているが、時折巴瓦や古瓦の片々が発掘される。(芦屋の葉)薬師山堂塔寺は遠賀町若松に位置し芦屋うちではないが特に記す。





  古い字名で月軒にある浜口廃寺跡とも云われている、月軒の丘



      今は木が生い茂り跡を探索するのも難しい。右手に見える駐車場は芦屋競艇場

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芦屋町郷土誌 「崗」より

月軒の丘

昭和57年

連華九曜文、軒丸かわら    

         田 中 八 郎   

古かわらの出る丘

 芦屋町浜口にある月軒の丘は、従来から廃寺跡といわれてきた。今は畑になっているこの丘には、寺の礎石と思われる大型の石や、厚味の布目文様軒平かわらの破片等が散乱し、歴史(古代学)・考古学に興味をもつ人々の関心を集めていた。





 昭和二十五年(一九五〇)に『文化財保護法』が制定され、昭和五十三年(一九七八)には待望の『芦屋町文化財保護条例』も制定された。そのころになると、この丘も、「埋蔵文化財包蔵地」として周知されてきた。芦屋町はできるならばこの丘を町有地にし、慎重に発掘作業を進めて廃寺の確証をつかむ意向であったと思う。しかしながら土地所有者との調整がつかず、昭和五十四年二月・五月の二回にわたって発掘調査が実施された。出土品等については 『崗』(六号)に一部記載されているので参照されたい。

 私は数多い出土品の中「連華((花))文あぶみかわら」(鐙(あふみ)かわら=軒丸かわら)一種をとりあげ、その管見を述べて問題提起にいたしたい。

 連華(連花)と連華文

 軒丸かわらは、丸かわら・牡(お)(雄(おす))かわら・鐙(あぶみ)かわらともいわれている。月軒から出土した各種かわらは古代かわらの中、?奈良時代(八世紀)?奈良時代〜平安時代(八世紀〜十二世紀)?平安時代。つまり八世紀から十二世紀にわたる間のかわら片であるといわれている。この中で、奈良時代から平安時代とされる軒丸かわらの中に文様(紋様)のかなり正確なものが残っている。この軒丸かわらの文様を研究の手がかりとした。

 この種の文様は 「複弁連華(花)文」の部類に属すると思う。達華の花弁は八葉で、花弁には一弁ごとに弐個の胡桃(くるみ)形をつけている(複弁は弐個・単弁は壱個)。中央部の円は子房(しぼう)を表わし、その子房の中に九個の連子(れんし、はすの実を表わす)がある。この連子の数はまちまちで、十個以上のものもある。北九州市八幡西区北浦廃寺の連子は七個である。

 連華はいうまでもなく、はすの花のこと。この花は仏の功徳を象徴し、清浄で染まらないことから仏教の代表花、仏教文様の代表にされている。この意味から考察すればこの種のかわらは、ある時期において寺院の建造物に使用されたものと推測できる。廃寺跡といわれてきたことも、うなずける。九個の連子は何か意味を持たせたものであろうか、それとも無作意に作られたものであろうか。

 八葉の花弁の外縁は二重の円で囲まれ、円内には玉(珠)の文様はない。また外円の周囲にも、玉・唐草(忍冬(からくさ)(にんどう)=すいかずらの漢名)・のこ歯などの文様もなく、全般的に簡素な文様である。

北浦廃寺かわら

 北九州市西区八幡北浦廃寺から出土した軒丸かわらの文様は、月軒の出土かわらの文様と大変よく似ている。時代推定をするうえで参考になると思うので、比較をしてみよう。(軒平かわらについては、北浦廃寺のスイカズラの波形文様は太宰府系古がわらの系統に近く、鴻膿館=こうろかん、式ではなく、むしろ老司=ろうじ、式に近い文様と思われる。


 月軒の丘、出土かわら





 上は複弁八葉の軒丸かわら中央部の小円に九個の連子、はすの実をあらわしている。

 下は唐草文軒平かわら、中央部の波形の文様は、忍冬(にんどう。スイカズラ)

                  北浦廃寺軒丸・軒平かわら

                   『洞海湾の歴史展』より


 北九州市立歴史博物館展示説明によれば、この種(軒丸かわら)北浦廃寺のかわらは、平安時代のものとされている。

 なお、月軒・北浦両寺の軒丸かわらについては、次に略図を掲載するので、比較検討をお願いいたしたい。

寺院かわらの歴史


 月軒廃寺跡出土かわら(芦屋)             北浦廃寺跡出土かわら(八幡)

 複弁連華文(軒丸かわら)                複弁連華文(軒丸かわら)


 百済(くだら・韓国) の聖明王が、仏像と経論を我が国に送り、仏教が正式に伝わったのは五三八年である。続いて「かわら」が伝来したのは五八八年、(32)代、崇峻(すしゅん)天皇の時代で百済からであった。当時の我が国と百済との密接な関係からみても、百済系文物の輸入は対韓国の三国(しらぎ・くだら・こうくりい) の中で最も優位を占めていた。畿内(きない)。飛鳥地方(あすか・明日香、奈良南部の一地方)には、その影響を受けて「かわら」ぶきの寺院が出現し、次第に全国へ広まっていった。

 北九州地方に寺院が現われ始めるのは、七世紀後半ごろといわれる。なかでも豊前地方(小倉・中津周辺)では、畿内の法隆寺様式の古かわらと、韓国の新羅系・百済系の古かわらが流行した。しかし、このような畿内系・韓国系の二つの仏教文化が栄えたのは八世紀前半ごろまで。八世期中ごろから、国分寺の建立(天平十三年=七四一年三月国分寺建立の詔)を契機に大宰府系古かわらが主流となり九州一円に浸透していく。

 大宰府系のこうろ館式・老司式。畿内系(法隆寺系)・百済系・新羅系の軒丸・軒平かわら五種を次に示す。

 1 大宰府系(こうろ館式)

珠文緑(たまもんぶち)、複弁八葉の軒丸かわら。均正唐草文軒平かわら。

2 大宰府系(老司(ろうじ)式)


鋸歯文縁(のこばもんぶち)、複弁八葉軒丸かわら。

 扁行唐草文軒平かわら。

3 畿内(きない)系(法隆寺系)



法隆寺系忍冬(にんどう)唐草文に代表され、豊前地方で流行した。

4 軒丸かわら(百済系)

 軒平かわら(重弧文)



5 軒丸かわら(新羅系)

 軒平かわら(新羅系




 九曜と九曜文

 私は『崗』七号に「生き残った十徳かま」の小論を発表した。その文中で熊本藩細川宗孝(五代)の家紋、細川九曜。板倉勝清の家紋、九曜ともえのことを記している。

 九曜文の由来をさぐってみよう。昔中国で天体中日(太陽)・月に五行を表わす木(き)・火(ひ)・土(つ)卦(か)・水(み)の五星を記して七曜。インドではこれに羅喉(らご)・計都(けつ) の二星を加えたものを「九曜」といった。この九曜が天体を支配するものと考えた。この九曜は仏典を通じて中国へ伝わっていった。つまり日(千手観音)・月(勢至ボサツ)・木(薬師如来)・火、(虚空蔵ボサツ)・土(聖観音ボサツ)・金(阿弥陀如来)・水(みろくボサツ)・羅喉(不動明王)・計都(釈迦如来) に充てられている。これも天地四方を守護する仏神として我が国に伝わり、平安朝の末ごろにはこの九曜の形を絵にした「九曜マンダラ」などが信仰された。これらの模様は厄(やく)よけの意味もあり、衣服や車紋等に用いられている。『平家物語』(巻第二)「座、王の流され」の項を見ると九曜の星のことが記されている。

「―。治承元年(一一七七)五月二十一日、比叡山の天台座主、明雲大僧正(天皇の護持憎)は西光法師父子が後白河法皇にざん訴したため、伊豆国(静岡県)に配流になる。この例は大国の中国でも先例がある。唐の時代(六一八〜九〇七)い一行阿闍梨(いちぎょうあじゃり)(玄宗皇帝の護持僧)が皇帝のきさき、楊貴妃(ようきひ)と浮名が立ったという疑いで果羅国(からこく)(不明)に流された。憎は真っ暗で通る人もないやみの道、樹木うっそうたる深山を七日七夜歩き続けた。天は無実の罪で遠流の重罪に処せられたことを哀れに思われたのであろうか、九曜の星を空に輝かせて一行阿闍梨をお守りになった。そのとき憎は右の指を食い切ってその血で左のたもとに九曜の形を写し記したというー。」

あとがき

 月軒の丘は数多くの古かわらや、その他の埋蔵物とともに、いろんな伝説も残っている。世阿弥(ぜあみ)元清(一三六三〜一四四三)の砧(きぬた)(猿楽の謡(うたい))に出る人物、芦屋の某(ぼう)が住んでいた所――きぬたの里とも。また月軒長者(朝日長者・善覚長者)跡ともいわれ、長者伝説発祥の地でもある。

 今回とりあげた軒丸・軒平かわら(破片)一対の中、特に軒丸かわらの九個の連子(はすの実)に目を着け、このかわらを「連華九曜文軒丸かわらし(複弁八葉)と名称を付した。月軒は古い字(あざ)名で、この地に廃寺跡と呼ばれる一つの丘がある。しかし寺のことを記録した文献資料はない。

 わが国のかわらは百済(くだら)から技法が伝わり、奈良県明日香村の飛鳥(あすか)寺(五九六年完成)跡から出土した軒丸かわらが最古といわれる。生産も畿内から各地にというのが定説になっている。近年福岡県大野城市や、春日市などから製造の窯(かま)跡が発見され、韓国から直接北部九州に技法が伝わったのでは‥‥‥とする大陸伝来ルートの見方が出ている。月軒の出土かわら等をめぐって、廃寺の確証や伝来ルート、文様の考証等、多くの問題が提起されている。今後の研究が一段と期待される。



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