堂塔寺ものがたり

芦屋町郷土誌
「崗」より






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「堂塔寺」物語り

中 島 正 勝    

 数十年前から芦屋町浜口字月軒の丘の土中より、住民の手で蓮華模様の瓦の破片がいくつか発見された。

 往昔、瓦葺きは寺院等の建築物にのみ使用され、一般の住宅に瓦が使われたのは、江戸時代頃からといわれている。

 ところが、出土した蓮華模様の瓦は、奈良時代から平安時代にかけての、寺院や迎賓館等に使用されたものと同種のものであることから、この地は古代の寺院の跡であろうと推定され、昭和五十四年二月から、二百万円(国庫補助百万円、県と芦屋町で各五十万円) の予算で、県文化課職員の指導のもと、芦屋町浜口廃寺跡発掘調査と呼称し(芦屋町教育委員会では) 二回にわたって発掘作業が進められてきた。(現在、発掘後の出土品その他について整理中である。)

 この月軒の丘と指呼の間(直線にして約二百米弱)に、真言宗独立本山「堂塔寺」がある。寺の縁起によれば、堂塔寺は、創建後間もなく、永禄年間(一五五八年〜一五六九年)に兵火に会って灰燼に帰し、廃寺となって歴史の中に埋没していたが、昭和三十八年川端亮貞師(尼僧)の手により、約四百年の歳月を経て再建されたとある。現在、霊験あらたかな堂字として、近郷近在の信者の尊崇きわめて篤く、参詣人も多いと聞いている。

 そこで、月軒の廃寺との関連において、この堂塔寺の由来などを、乏しい資料の中から、つとめて考証を期しながら筆をおこすことにした。

(1)堂塔寺周辺の沿革

 現在の堂塔寺は、遠賀町若松に位置し、芦屋町字浜口月軒とは、町境となって相接する地にある。

 もともと堂塔寺とは、総小字(あざ)数五十七にまたがる小部落の集落、大字鬼津の小字名である。

 この、大字鬼津の名称については、遠賀郡誌に「大宰府より京に上る官道なりし地なれば、官津の由なるを、後に転詑せしなるべし。」と述べてあり、叉「官津を大津、叉は御津などということ古書に数多ありPと記載されており、昔から官道周辺の小部落として、存在していたことは容易に首肯できる。

 さらに、この地一帯は、縄文時代より弥生時代にかけて広域にわたり入江であった事は、随所に貝塚が存在する事から、推察されるところである。

 このように、海上交通路の一部であったこの地域は、大小いくつかの島々が点在し、汐の満干の関係から、船の交通が不自由をきわめたことであろう。このことは日本書紀巻八に出てくる、神功皇后と岡県主の祖熊鰐との物語りによっても想像することができる。

 この海上交通路の、渡口であったと思われる個所には、それぞれ神社が建立されている。若松区字丸ノ内鳥見山の住吉神社 別府字南の今泉神社、嶋津西川辺字丸山の伊豆神社等は、創建も非常に古く、位置関係から見て 昔の海上交通の要衡と考、えられる。

 叉、岡垣町高倉神社の下官であった芦屋町船頭町岡湊神社の、御祭神である大倉主命と菟夫羅媛命を、前記今泉神社も、御祭神として祀ってあることも興味深い。

 いずれにしても、これらの御社は水路の要衡に位置していることは事実であるが、史料となる文献等が散逸しているために確かな事は判らない。

(2)寺院としての堂塔寺

 堂塔寺より南約一kmの若松に、開基永禄三年庚申(一五六〇年)の曹洞宗栄宗寺があり、南西約一・三kmに、慶長元年丙申(一五九六年)開基の曹洞宗常楽寺があるが、これらの寺院は、岡垣町大字高倉字関前に、永正年間(一五〇四年〜一五二〇年)大寧八世足翁永満によった開山された竜昌寺の末寺である。

 ここで、堂塔寺の開基について考察するために、竜昌寺と末寺との関連を調べてみると、上の図の一覧表の中で、比較的年代の接近している竜昌寺三世玄祝 (洞源寺開基)と四世瑞珠(栄宗寺開基)のつながりから、永禄二年(一五五九年)に堂塔寺が廃絶しているので、おそらく享禄元年(一五二八年)から永禄元年(一五五八年)の間に、どちらかが堂塔寺を建立したであろうという見方が成り立つのである。このことは、現在の薬師堂と、堂塔寺境内の間に百坪程の空地があるが、これは昔から栄宗寺の財産として代々受け継がれており、堂塔寺全体が栄宗寺の所轄のものであった事実、また、四世瑞珠が兵火にあった薬師如来を、栄宗寺に移し安置し参らせたと、里民間で言い伝えているので、堂塔寺は、その昔竜昌寺の末寺であったであろうと推定されるのである。

 尚、竜昌寺は、花尾城主麻生遠江守家延の子で吉木岡城主であった、麻生弘繁の勧進による足翁永満の開基であり、永正二年 一五〇五年)の開基から、承応年間に至る約百五十年間にわたり、曹洞宗小本山として、末寺と共に八世代間隆盛をきわめてきた堂字である。

 さて、随所に出てくる兵火とは、永禄二年豊前の豪族大友宗麟が、筑前平定の前哨戦として、肥前龍造寺隆信と兵火を交えたことを指す。以後大友の宿老立花道雪等と、毛利元就、龍造寺秋月連合軍との間に、北九州争奪の戦火が、元亀二年(一五七一年)まで、約十数年間続くのである。

 この間、毛利方に組し、山鹿城、岡城(現岡垣)大城(現芦屋)等に拠った麻生一族は、大友兵の攻撃を受けて落城し、その折近郷の神社仏閣はことごとく灰燼に帰し(堂塔寺も含め)他の、主要な史料等も逸失してしまったといわれている。

(3) 現堂塔寺の由来

 現在の堂塔寺は、本尊大日大聖不動明王、寺仏弘法大師二体、十三仏その他、本堂、庫裡、薬師堂、滝場を有する寺院で、真言宗独立本山である。

 尚、新しい由来碑があるので、次に掲載することにした。

 (堂塔寺由来碑

 この小さな丘は、遠賀郡遠賀町若松にあり、堂塔寺山または薬師山ともいう。山の南左右に丸尾という砦ありし由言い伝う。寺は永禄年中(一五五八〜一五六九年)大友宗麟の兵火により廃絶する。

 現在この寺地一町の所に、薬師如来の石仏と、その傍にえのき

榎木の大木あり、その下に径三尺、深さ八尺の目洗い井戸あり。里民の伝に、昔朝日長者または月軒(つきのき)長者という者の一人の女、眼を病みて彼の薬師に祈りければ、「この井戸にて眼を洗うべし。」との夢のお告げあり、即ち、洗いしかば、忽(たちま)ち眼疾平癒す。故に「目洗いの井戸」と、名付くという。以下略

 この長者の宅址であったといわれる所が、この井戸より西一.町ばかりの丘で、前述した芦屋町宇浜口月軒なのである。

(4) あとがき

 この堂塔寺については、往時の資料が殆んど皆無の状態であり、その為に手をつけた人も、中途で断念しているのが現状である。しかし、四百年程前には、お寺があったとの民間伝承もあることから、何かの手懸りでもあればと思い、遠賀郡誌、芦屋町誌、筑前戦国史(吉永正春著)等をひもとき、それらの客観的な資料を参考にして、過去の堂塔寺の姿を推測したわけである。

 調査に当り、堂塔寺を含め、古(いにしえ)の太宰府官道の延びるこのあたりの丘は、歴史的に貴重な幾多の史実を秘めており、先人たちの血のぬくもりを、僅かながらも理解できたことは、私なりに大きな収穫であったと思うのである。

 ただし、調査の範囲もせまく、限られた資料でまとめなければならなかったことは 聊さか心残りでもあるので、

更に他日、機会を得て「故きを温ねたい」ものと思う次第である。

 この稿をおこすに当り、堂塔寺二代目住職川端憲三師の作になる、レポート「堂塔寺」の大部分をお借りして、参考にさせていただいた事を附記し、感謝の意を表したい。

郷土誌「崗」より