山 鹿 鉱 害 復 旧 之 碑− 山鹿字舟ケ浦

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山 鹿 鉱 害 復 旧 之 碑− 山鹿字舟ケ浦


この山鹿の城山一山分の土を埋め立てに使用した。
なんと大掛かりな陥没地の復旧工事
だったのかがわかる。

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76 山 鹿 鉱 害 復 旧 之 碑− 山鹿字舟ケ浦

   昭和四十五年(一九七〇)五月 石炭鉱害事業団 外

昭和二十六年(一九五一)日本炭鉱株式会社が大君炭坑を引き受け、同二十八年から採掘を開始したが、そのころ山鹿耕地はすでに永年にわたる採掘のためひどい鉱害を受けていた。鉱害のため山鹿の広い耕地には、大きな陥没湖が二ヶ所もできて、ほとんどの耕地はつぶれていた。この広大な湖水と化した陥没農地を還元復旧することは容易でない問題であった。特に陥没地の復旧作業工事は、遠賀川河口の平均標識よりも著しく陥没度が低位にあった為、作業は困難をきわめたが、遠賀川河床の砂を多量に陥没沈下箇所の下埋土に使用し、完成をみることができた。山鹿耕地鉱害復旧工事に使用された土は山鹿の城山一山を根こそぎに使った量にひとしいと言われている。この復旧完成した中で一〇ヘクタールは畑地とされ、あとは田地として復帰している。原形復旧は六八ヘクタールであった。(芦屋町誌)