山 鹿 貝 塚(県指定史跡)−柏原区北部

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山 鹿 貝 塚(県指定史跡)

2015年3月16日に久しぶりにこの地に行ってみると
上の写真の鬱蒼とした林が伐採されていた。下の写真


近くの住人の方の話では山鹿貝塚公園になるとの事であった。



説明版のみが、唯一の場所を示すものとなっている


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58 山 鹿 貝 塚(県指定史跡)−柏原区北部

水のある所に文化は生れるといわれているように、遠賀川河口の山鹿・芦屋には数千年前から人が住みついていた。石器時代、人は狩猟・漁猟をしその食物の残滓の獣の骨、魚の骨、貝殻等を住居の近くに捨てた。貝塚は石器時代人のゴミ捨て場とみられるもので、縄文式時代の住居遺跡の代表的なものである。山鹿貝塚は東西に約一五〇メートル、南北に約六〇メートル、海抜約一五メートル(路面より最高点七メートル)約九〇〇平方メートルの拡がりを有し、松の疎林におゝわれた小高い死砂丘を形成している。こゝは貝がら山と呼ばれ土地の人に親しまれていた。戦後遺跡の西側海岸に連なる砂丘の一部は、製塩所をつくるために取り除かれた。以前この砂丘は東西に延びていた由で、おそらく東西の長さは二〇〇メートルを越えていたであろう。そしてその西端は直ちに海になっていたとのことである。

昭隊和二十八年(一九五三)十二月八幡の竹中岩夫氏によって石器時代人の遺跡貝塚であることが発見された。

昭和三十年(一九五五)七月貝輪を右腕に一個、左腕に十一個装着した女性人骨が発見された。(第一号人骨、船津常人氏)昭和三十七年(一九六二)五月に第一回組織的発据調査が行われた。当貝塚所見の土器はすべて縄文後期の土器で、中でも磨滑縄文の紋様を有するものが最も多く見られる。この貝塚の代表的土器の観があった。北部九州では従来この式の土器を鐘ケ崎式と称して、縄文式後期の代表的土器とされている。昭和三十八年(一九六三)六月戸畑高校社会部の生徒が、貝輪を装着した前腕部を発見した。そのリーダー格座小田勉氏は以前より画桟のあった鈴木長敏氏(現在芦屋町立歴史民俗資料館に勤務)にこのことを知らせた。鈴木氏は芦屋町教育委員会にこのことを知らせた。現場では芦屋町郷土史研究会会長岩崎天外氏鈴木氏ほかに町職員数名が立合にて、これを確かめてのち埋めもどした。県文化課にも連絡をした。戸畑高校生徒達がこれを発見した時それ以上に発掘作業をせずに連絡して呉れたことを鈴木長敏氏は「最善の処置」だったと筆者に話をしてくれた。当時のリーダー格座小田勉氏は現在筑上西高等学校教諭で考古学部門で生徒の指導に尽力している由。

昭和四十年(一九六五)五日前記人骨を主眼とした第二回目の組織的発掘調査がされた。今回の発掘では入官が三体出たが二体は成人で一体は乳児であった。これらは並列の形で一つ所から出た。この三体の人骨は芦屋町立歴史民俗資料館に保管されている。

昭和四十三年(一九六八)十一月に第三回目の組織的発掘調査が行われた。この発掘では人骨は一四体で女性四、男性七、幼児二、性別不明一であった。

以上のように昭和三十年から数次にわたって発掘調査が実施され、その結果十八体の人骨を始めとして、耳飾り貝輪等の装飾品や石器・土器片等が多量に発掘され、縄文時代の遺跡であることが確認された。(芦屋町誌・遠賀郡誌)