柏 原 御 台 場 跡 − 柏原洞山入口右側

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柏原御台場跡が山鹿御台場跡に変更されている。
場所も縄田益三さんの裏山から波懸岸方面の
海岸通に移されていた。



元あった場所と思われる所


石碑の裏側

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56 柏 原 御 台 場 跡 − 柏原洞山入口右側

 梶田益三氏宅裏の高台あたりが柏原御台場の跡という。一説にはこれより南方川原定氏宅前の広場(貝島の別荘があった)だともいう。文久三年(一八六三)福岡藩では藩士を配置して外艦の襲来を警戒させた。遠賀郡には士族隊長として家老野村益雄が本城に駐在し、若松地方は吉田主馬が主将として若松に駐在した。若松・芦屋・柏原には御台場が構築された。台場づくりには一般農民が動員された。「福岡年代記」によると「文久三年六月朔日若松浦中島砲台築立、七月成就」とあるから、柏原の台場も短期間に造られたものと思われる。芦屋・柏原・若松地方では農民が徴用され、農兵として交代で日夜台場に詰め大砲の打ち方を練習させられた。町人で大砲打方に召されたものもあった。吉田主馬の支配下にあって郷筒方(大砲方)を勤めていた者たちは、足軽にとり立てられ年々米三俵づつ支給されていた。各台場には福岡蒲の防備施設として明治初年まで残されていた。明治元年一八六八)六月山鹿魚町の小田彦五郎、芦屋町の善七、与四郎の三名が芦屋・柏原の両砲台の簡掛り農兵頭取を命じられた。(芦屋町誌)