「伊万里焼の小さな茶碗」


 
2008年6月、石碑の探索中、ある石碑をなかなか見つけることが出来ず、調べた本との位置関係を頼りに石碑のあると思われる場所あたりを探索していました。

 そんな折、玄関先にご老人がおられたので、尋ねると、その石碑は私の家の庭にありますとのこと。

 中に入らせてもらい写真を撮り、いろいろ貴重な話をお聞きすることが出来ました。

 非常に興味深く、そして悲しいお話しでした。

 ご老人(以下Hさん)のお話では、江戸末期から明治の初め回線問屋だったそうで、今から四代前の当時の店主は伊万里焼などを瀬戸内海などに運び、一ケ月ほど滞在してその地方の特産品を仕入れて芦屋に帰港していた。

 ある年、瀬戸に滞在の折、地元の女性と親しくなり、女性が芦屋まで付いて来てしまい、店主はすでに既婚者であった為、親戚中の問題になり、店主はどうにもならず、女性と別れる為、柏原港の持ち船を手切れ金として渡して別れるしかなかった。

 その後も、女性は近くに住み付き、まもなく芦屋で亡くなったそうです。

 その墓は、ぽつんと供養もされずに無縁仏になっていた為、店主は不憫に思い、お骨を自分の家のお墓に入れ供養しようと掘り返したそうです。しかし、墓には、もうお骨も無く、ただ中に伊万里焼の蓋のついた小さな女用と思われる茶碗が1個在っただけだったと云う事です。

 その茶碗が右の写真です。仏壇には法華宗のご本尊が祀ってあります。

 四代前の店主はこれまでの行いを悔い、改心の情に駆られたのか法華宗のお堂を建てたのでしょう。とHさんは言っておられました。

 その時のお話の中で、何故、4代前の廻船問屋の店主が法華宗に入信したのでしょう。時代背景として、今も八幡西区に祇園山龍潜寺がありますが、明治の中頃、高僧の日諦(にったい)と民衆に慕われていた上人が布教活動をやっていた頃で、その勧進を聞き、入信、山鹿のこの地にお堂を建てたそうです。

 当時の古い地図を見ますと山鹿地区の字、雁木・字、渡場・字、浦各区は、明治42年遠賀川改修工事のため120戸が水没させられています。

 この主人の廻船問屋はぎりぎり逃れておりますが周辺地域であった為何らかの影響があったようです。改修以前の住宅地図には確かに法華宗と書いてある位置が今の石碑のお宅の横に当たります。この碑を建てたのが明治32年とありますので10年後ですので、時期的にも移動させられたのが一致します。

 昭和の初めにこの一家は芦屋を離れは大分に移り住んだそうで戦後、帰ったときには、区画整理で法華宗のお堂の跡には当時山鹿小学校が建てられており、見る影もありませんでした。

 その法華宗のお堂にあった門柱や石碑等は横のほうに廃棄された状態だったそうで、土地も4分の1ぐらいの現在お住まいの位置に追いやられていたといいます。

 その為、今の位置に石碑を移し祀っているそうです。
載せるにあたり、Hさん本人の許しも取れてませんので、名前や位置は詳しく述べられませんので申し訳ございません。


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瀬戸の女』のせつない話



女の船を係留されていた柏原(かしわら)漁港



仏壇には法華宗のお堂にあった、ご本尊が祀ってあった。



お墓から出てきた、伊万里焼の蓋のついた
瀬戸の女が使用したと思われる女物の小さな茶碗

  今は花壇の敷石になっている法華宗のお堂の門柱
 この番地に行くには芦屋町の道から20メートルほど県道となっている。
芦屋町に、この門柱を処分してくれと頼んだが管轄ではないと断られたので仕方なく花壇に利用したとのことである。


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