薬 師 堂 −(浦区)山鹿18−1 |
42 薬 師 堂 −(浦区) 山鹿一八−一(奥のつきあたり) 浄土宗大願寺の末庵なり、本尊薬師仏は永禄年中漁人の網に掛り海中より上りし仏像なりと云う。(遠賀郡誌) ◎四国第七十四番甲山寺札所の石標 − 明治二十五年一一八九二)十月 ◎堂 宇 −.(倒壊して今は無し) 島郷四国第五十一番札所 本尊 薬師如来 ◎宝 篋 印 塔 − 寛永二歳(一六二五)二月 秋枝 庄兵衛 同姓 勘次郎 ◎漁 夫 遭 難 者 供 養 塔 − 元禄十三暦二七〇〇) 当浦中 当浦於海上□□□百五十人 為頓證菩提 明治二十一年(一八八八)三月再建 中西 仁三郎 野間 作右ヱ門 ※浦区の厳島神社に池田という社僧がいた。社僧の弟治右衛門は隠岐の島の島浦明神に参拝したとき、美しい女と知り合い、いっしょに山鹿に帰ってきたが、兄が病死したので治右衛門が社僧となった。楽しい生活がつづいたが数年ののち治右衛門は病気のため亡くなった。天の死後、毎日厳島神社の神前にぬかづいているうち、女は霊感を得て女ぅらない師となり、人々から生神様として尊敬された。 元禄十三年(一七〇〇)七月十九日のこと、海上はおだやかであったが、女うらない師は出漁しようとしていた漁師たちに「今日は悪天候になるから出漁を中止するように」と止めた。しかし漁師たちはきかずに出漁した。夕方から大雷雨になって漁船は次ぎつぎに難破し、漁夫たちは全員海に沈んだ。遭難者は一五〇余名と伝えられている。予言があたったのである。この事件以来、女うらない師の名は四方にひろがって、生神様として以前よりもあっく尊崇された。女うらない師の墓は現在大願寺墓地にある。法名本誉妙誓信女、元禄十七年三月とある。(芦屋町誌) |