法 輪 寺−(元町区) 山鹿22−17

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法 輪 寺 −(元町区) 入り口付近の説明板


門 柱 − 大正五年(一九一六)六月 吉永惣次郎


五 輪 塔 − 貞享四年(一六八七)十月


菩 提 樹
漱 盤 (右下) と 鐘 楼(右横)


宝 篋 印 塔 (妙典一字一石)



本堂と床下に保存されている前本堂の鬼瓦



本堂の礎石は日本最古の五輪塔の礎石と云われている。


銅 製 経 簡 −(県指定考古資料)


五 輪 塔 と 石 仏

上の写真の階段を上り裏山へ


島郷四国第九番札所(正面奥) 仏 像 (三十三体)



延 命 地 蔵 尊(坐像)− 大正十三年(一九二四)七月


大 行 普 賢 菩 薩 (坐像)


大 聖 文 殊 菩 薩  奉納一字一石経典 −
城山公園内(権現堂山)


島郷四国第九番札所の浦を少し進むと小さな祠を見つけその先に儀式をする場所であっただろう少し開けた場所を見つけた。


調べると豊前岳神社があったそうだ。
祭神 遇突神(火災を防ぎ牛馬守護神)

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37 法 輪 寺 −(元町区) 山鹿二二−一七

法輪寺は佛海山と号す、禅宗臨済派博多崇福寺末なり。此の寺頗る古刹なりと雖も惜哉開基の年暦等詳ならず、初めは真言宗なりしと云う。中興開山を蔵海珍和尚と云い、応安七年(一三七四)此の寺を建て是より禅宗となれり。昔は大寺なりしが兵乱後漸く衰微せり。(遠賀郡誌)

※里人は此の寺を法輪寺(はうれんじ)という。

 (説 明 板)

鋼製経簡(一口) −(県指定考古資料)

法輪寺境内西の谷から昭和二年(一九二七)八月に発見されたものである。寺伝によると文政六年(一八二三)に出土したものを再埋納したものと言われる。青銅製円筒型の経筒で、総高約十四糎、径七糎、線刻で蓮華文のある平たい蓋と幅の広い合がついている。簡身の銘文は

  妙法蓮華経全部八巻

    奉為関東御曹司千寿御前

    相当一百箇日忌景御為滅

    罪生善頓証菩提一日頓写供養如右

      徳治三年(一三〇八)正月甘二日

        導師 遍照金剛澄空

        勧進 遍照金剛皇聖

    母儀菩薩戒尼遍照金剛清浄覚 敬白

とあり徳治三年に当地の豪族山鹿氏が関東政権のために供養したものではないかと推定される。

◎門 柱 − 大正五年(一九一六)六月 吉永惣次郎

◎五 輪 塔 − 貞享四年(一六八七)十月

         空風火水地  梅点妙香信女淑霊

◎漱 盤 − 明治三十□

◎宝 篋 印 塔 (妙典一字一石)−

              天保九年(一八三八)七月

        濱中又三郎茂陵拝写 男又右衛門茂群建塔

 ※芦屋中ノ浜海雲寺にある宝篋印塔と共に芦屋町における

 江戸時代作宝篋印塔の代表的なものである。

 ※境内には五輪塔・宝篋印塔五重層塔が数個ある。

◎本 堂 −

 中興開山の蔵海珍和尚は、鎌倉円覚寺五十六世の住職であった。応安七年(一三七四)芦屋に来られてこの寺を開いたが、当時の状勢では円覚寺の住職であった高僧を招くということは並み大低のことではない。当地方で相当な権力者でなければ出来ないことである。が其のいきさつは寺が焼失して何も残っていないので調べるすべもなく解らない。

鎌倉円覚寺の流れをくむ臨済宗の寺は、九州ではこの法輪寺のみであるが何時の世からか博多の崇福寺(大徳寺派)の末寺となり現在に至っている。戦火にあいさびれた時代もあったのであろう。昔は寺地も広く大きな伽藍がそびえていたと思われるが焼失してしまって其の跡形もない。今の本堂も焼けたあと再建したのであろう。柱下台石にはそこらにあった五輪塔や法篋印塔の角石が使われている。この本堂は盛んなりし頃の禅堂ならんと。(桐畑端蜂師談)

◎佛 舎 利 −

釈迦の遺骨で小さな五輪の水晶の容器の中に納められている。これはどこの寺にも有るというものではない。法輪寺伝来のものである。いかに名刹であったかがうかがわれる。

◎銅 製 経 簡 −(県指定考古資料)

昭和二年(一九二七)八月境内西の谷より発掘したもので、その形状は青銅製円筒型、高さ三一・九糎、口径六・八糎、合径八・五糎、蓋は外径八・五糎で蓋の上面には綿刻の繊細な蓮華模様があり、製作技術の優れていることがわかる。銘文によると鎌倉源頼家の子供千寿御前の没後、百回忌供養の為に作られたもので徳治三年(一三〇八)一月二十二日清浄覚尼が祭主となり、千寿御前の霊を弔らうために盛大な供養を行い、千体地蔵と妙法蓮華経八巻を納め埋められたものである。(芦屋町誌)

◎鐘 楼 −

菩 提 樹 −

この寺の菩提樹は明治三十年頃の火災にあい焼けたそうである。その焼け残りし枯渇寸前の古株から出た横芽が成長したものである。現十八世桐畑端峰住持の「鎌倉の円覚寺、建長寺からはなれ、京都の大徳寺を本山とするに至った時点かも知れない」との言葉をかりれば、三百年前になるも、あながち無定見な推察ではないとも思えたが、いつ頃誰の手によるものか一切が不明、確たることを知るよすがになる何物も無い。端蜂住持はシゲシゲと見あげ「こんな立派な菩提樹は少ないですバイ」とはこらしげに語った。

              (崗六号 加藤一天)

◎宝 篋 印 塔 −

これは千寿御前の墓といわれている。

※経筒の銘文とは別にこんな話もある。山鹿城主麻生氏の系図によると、初代といわれる麻生家政の女房は高倉院白姫で、この人は大変な美人であったと云われている。「紅梅姫」とも呼ばれていて、没後はこの法輪寺に葬られたが、千手御前の墓というのはこの人の墓のことで、白姫の母は安徳天皇の母君「建礼門院」であったとされている。経筒の銘文にある「千寿御前」とこの「千手御前」と関係があるかどうか、そんなことを想像することもまた歴史の面白さではないだろうか。(芦屋ガイドブック)

◎五 輪 塔 と 石 仏 −

文政六年(一八二三)三月本堂の家屋を補修せんとて、寺の西の谷より土を取りしに、高さ四尺ばかりの五輪塔を堀り出せり、其の廻りに立し塔と見えて小き五輪塔五十余出たり、又石仏十六体あり高さ壱尺七〜八寸或は壱尺ばかり、其の側は小石をもって埋めたり。経石なるべし、其の下より鋼造の経簡出たり。(遠賀郡誌)

※当時の人々は仏の崇りを恐れて再び旧地に埋めたものと伝えられていたが、昭和二年(一九二七)八月に再び発据されたのである。

※文政六年に発据されたものゝ中に応徳元年(一〇八四)と刻まれたものがあったと「遠賀郡誌」に記載されているが、現存するならば五輪塔では日本で最古のものである。

本堂の礎石に使われているこれらの石は、かってはこれ等の五輪塔や法篋印塔の台座であったものと思われる。中に平盛兼と読まれる文字が刻まれたものがある。

(裏山に上る)

◎法輪寺本営左手より裏山に上ると地蔵堂があったのだが、今は無い、最近になってそのあとに見晴し合(休憩所)の小屋が建っている。

島郷四国第九番札所

本尊 釈迦如来

◎仏 像 (三十三体) −

世 話 人  石田 明峰  上田 房吉

妹尾 秀二  徳山実太郎  柴田竹次郎

野中利太郎  岡崎 柳吉  坂尾甚次郎

桑原 ヌイ  久我 アキ  村田 タケ

◎延 命 地 蔵 尊(坐像)− 大正十三年(一九二四)七月

折 尾 町  野中友次郎  北古賀熊吉

脇  松吉  川又 関次

山 鹿    野中利太郎  野中喜三郎

◎抜 羅 駄 闇 尊 者 −

         明治四十三年(一九一〇)

小田 伊平  畑野 善右ヱ門  波多野 忠蔵

◎大 聖 文 殊 菩 薩  奉納一字一石経典 −

          昭和二年(一九二七)五月

波多野 龍雄  重松  恭順  桑原  宗重

鶴原  角平  藤崎 国太郎  入江  芳松

石田  明峰  吉永  泰山  縄田 恒次郎

熊野  貞十  野間  徳蔵  吉永 忠太郎

田中  政助  野中  秀吉  坂尾  春吉

吉田元右ヱ門  野間六右ヱ門  中西  楠郎

藤崎 百太郎  岡部  雄策  堀尾  壽郎

守田 又次郎  堀江 勝四郎  中嶋  頭十

重岡 善太郎  重岡 仙太郎  守田 銀太郎

末口   博  外

◎大 行 普 賢 菩 薩 (坐像)一字一石経典 −

          昭和三年(一九二八)十一月

塩田  久七  松田  勘助  佐野 傅次郎

佐野  輿平

小田  福次  岡村  勘助  加藤  百松

吉永 品次郎  中山 万太郎  野中 福太郎

野中  駒吉  久我 関次郎  松田  源八

藤田 伊七 重個 梅吉 重岡 幸太郎

小野 国太郎  吉永   貢  石田  明峰

井上 勝次郎  大貝  鶴松  小田  文太

小川 米二郎  吉永 杢太郎  多賀谷伊之吉

鶴原  亀吉  中西  吉助  中西 半兵衛

藤崎  平市  福田  惣七  篠田勘右衛門

三原   清  三村 芳太郎  柴田 作次郎

白石 巣次郎  重岡  房吉  久野  兼吉

本田 周太郎  鶴原 忠五郎  水上 恒太郎

本田  友七  加藤  弥一 鶴原  達雄

佐野  傅一

中西 藤四郎  中西  市郎  野口  善作

塩田  善蔵  吉永  壮助

鶴原 庄次郎  藤江  震吉  藤江 勝次郎

江藤 輿三郎  鶴原  繁喜  外