鹿 門 黌 舎 跡 の 碑 −(三軒屋) 山鹿七−一四

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鹿門黌舎跡の碑 −(三軒屋) 山鹿七−一四


碑 文

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27 鹿 門 黌 舎 跡 の 碑 −(三軒屋) 山鹿七−一四

(碑 文)

明治五年(一八七二)山鹿教育の先覚若林次敏は、福岡県より第十区(島郷一円及戸畑・枝光・中原)の戸長手伝兼山鹿魚町副戸長(今の町村長)を命ぜられ、翌六年山鹿村副戸長浜中茂足と相謀り、三軒屋中西幸蔵の家屋を借りて、鹿門黌合と名付け私塾を開いた。明治八年(一八七五)十月山鹿小学校と改称、同十五年(一八八二)五月山鹿字西ノ浦に校舎を新築し移転するまでの間、多くの生徒を世に送り山鹿小学校の基礎を確立した。