菅原神社(築山(つきやま)天満宮)−(雁木(がんぎ)区)

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菅原神社(築山天満宮) −(雁木区)山鹿二−四
鳥 居(額 天満宮)
奉再造神門 左 右 −文化十年十月 魚町中
玉 垣 − 明治三十五年(一九〇二)六月


幟立石柱(清道柱) 明治三十年酉四月吉辰
雁浜・誠励社 社長江浦勝兵衛


聖廟一千年寄付一金三百参拾圓
嘉穂郡幸袋 篠崎倉次郎


猿 田 彦 命 − 寛政十一年(一七九九)五月


石祠 −大正八年(一九一九)十月  小田 伊平


玉垣 − 右側 社長野間兵七 明治四十年(一九〇七)六月
左側 日露戦没記念 社長 塩田万太郎
潮井石 − 明治十年(一八七七)八月
漱 盟 − 明治三十一稔(一八九八)六月


一千五十年祭記念植樹の碑


牛 石 像 − 大正三年(一九一四)七月


燈 籠 − 弘化二年(一八四五)八月


堂 宇


祭神 菅原道真公
 額 菅原神社
絵馬 明治十九年丙戌十二月殻且
山鹿鳫濱 若者中

2014年3月 追伸
2014年1月中旬上に掲載の社殿は解体されていました。





 神殿跡



氏子さんの話では周囲の崖が危険で崩れ始めていたので
取り壊したとのことであった。
この跡地には小さな祠を祭りたいとの事である。
寂しい事であるがこれも時代の流れ仕方ないなあ・・・・。
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1 築 山(つきやま) 天 満 宮 −(雁木(がんぎ)区)山鹿二−四

雁木区築山にあり祭神菅原道真公、本社創立の由緒を原ぬるに、直方の藩主黒田家此所に船を繋ぎ船頭船子(ふなこ)を置き、江戸往来の用に供せられけるが、当時の船長岩崎清兵衛外二名相謀りて、享保十一年(一七二六)正月勧請せりと云う。明治五年(一八七二)林次敏氏福岡県庁より召され、第十区(島郷一円及戸畑・枝光・中原)戸長手伝兼山鹿魚町副戸長を命ぜられければ、赴任して組頭・伍長など集めて何くれと町の事ども尋ね聞ける中に、或人日当地築山天満宮古へは六月二十五日船にて遷幸ありて頗る盛なる祭礼なりしに、三十年以前より廃絶せるは遺憾の事ともなりと語りけるより、其有様など委しく問試みし後を再興しては如何といひけるに、一同大に賛成しければ、然らばとて諸事旧規など取調べ其筋の許可を得て之を実行する事となりたり。偖其祭典及び神幸の次第は、六月二十四日暮頃より神職・町役人一同社前に参向し祭典を行ひ、神職御神体を神輿に移し奉りて、魚町村浦と順次神幸ありて浦の浜辺に設けたる頓宮に着せ玉ひ、此にて又祭典ありてやがて神輿を御船に乗せ奉り、神職・町役人御供して港口に向ひ漕出ぬ、りゆうりょうたる苦楽は涼風に和して爽快いうばかりなく、二隻の引船は櫓声勇ましく、御供船は幾隻となく満船に提灯を懸連ねて酒肴をさえ載せたりと見え、追々笑語の声湧くが如く、回視すれば満口御供船を以て充され壮観いう計りなく、港口の波止近くまで漕出してやがて引返し芦屋の東町の辺まで漕上るころ、神社の岸頭に篝火を焼くを合図に漕返り、篝火のほとりより神輿を上げ奉り宮殿に還輿なし奉る頃は東方既に白めり。斯くて其翌年よりは芦屋町は云も更なり、近村よりも御供船を出す者多く、或は遊船を兼ね技を載せたるもあり其盛況言語に絶す。実に一地方に稀なる祭典とは成れるなり。其後継続して今猶之を行へり。

                       (遠賀郡誌)

※菅原道真が太宰府へ左遷されるとき、道貢一行が九州に入ってからの行路には、海路・陸路の両説がある。陸路説は周防の国府に立ち寄り、それから豊前の海岸に着き、海岸つたいに関門海峡を通り、門司に上陸して陸路太宰府道を通ったとなっている。海路説では関門海峡から船で博多へ向ったのだという。海路説だと芦屋に寄ったことも考えられる。

※道貢を祭る天満宮は全国各地にあるが、芦屋町山鹿魚町雁木の築山天満宮は、享保十一年(一七二六)黒田継高の家臣山崎義房が創建したものである。霊示によって船御幸(ふなみゆき)の神事が始められたのは、寛政三年(一七九一)からであるという。

毎年旧の六月二十五日神輿は氏子たちにかつがれ「長歳やチョウサイヤ」の呼び声とともに区内をまわる。斯くて神輿は浦の浜辺に設けられた頓所に着かれ、此処で再び祭典の式が行われる。やがて夕なぎの遠賀川に浮かべた御船に神輿がうつされ、紅提灯に飾られた数十の供船と共に川を下り、浜崎浦の石渡止の上にある速瀬神社のあたりまで行き、また上流に向って東町の辺まで川を上り、その間はりゆうりょうたる笛の音が涼しく水面を流れ、櫓音もゆるやかに宮人の優雅を思わせる古色独特な船御幸の神事で、地方に稀な水上の祭典である。船御幸は道真をなぐさめるため、土地の者が船を浮かべ漁をして見せたのが起りであると伝えられている。

                 (芦屋町誌・芦屋の栞)

◎幟 立 石 柱 − 明治三十年(一八九七)四月

総 代    塩田  宗一 林   孫十

久枝  吉次  藤崎  清吉

見 ケ メ   藤崎  清三  兵道  忠三

藤江  彦助  兵道 定五郎  伊藤 幸太郎

塩田  菊松  吉永  弥作  吉永 清太郎

林  重太郎  真貝 林兵衛  井上 伴太郎

林  栄次郎  中西 喜五郎

筑田  富吉  井上 安太郎  坂尾 久次郎

武田  吉造  江崎  久吉  藤江  幸七

野口  幸七  塩谷 友次郎  重岡 長五郎

藤崎 清太郎  藤崎  力吉  野口嘉右ヱ門

重岡  甚助  猿田 市太郎  阪尾  宗平

伊藤 八十吉  野口  嘉平  久枝 六次郎

熊野  貞十  藤崎  勘市

雁濱誠励社 社長幹事

江浦 勝兵衛  武田 隣五郎  阪尾 甚次郎

野口  栗市  阪尾  春吉  野間 六太郎

岡田  文吉  三浦  達吉

取締社員    久枝吉右ヱ門  藤江 庄五郎

武内  保郎  小田原茂三郎  中西政右ヱ門

藤崎 八百吉  末松  新三  堀江  勝三

藤江 幸太郎  野口  米吉  堀江 勝四郎

何部 兵太郎

◎玉 垣 − 明治三十五年(一九〇二)六月

◎鳥 居 (天満宮)− 文化十年(一八一三) 魚町中

◎猿 田 彦 命 − 寛政十一年(一七九九)五月

◎石 祠 − 大正八年(一九一九)十月  小田 伊平

◎玉 垣 − 明治四十年(一九〇七)六月

塩田 萬太郎  野間  兵七

野口  善作  藤崎  幾平  野間 一郎

坂尾  彦市  藤田 松太郎  金子 長三郎

田中  磯平  坂尾 兵太郎  兵道  安吉

兵道  久吉  中西  政次  藤原  平次

藤江 友次郎  三浦  安吉  和田 清五郎

大貝 國太郎  藤崎 實太郎  井上  高市

林   文助  藤本  團蔵  川村  豊吉

金子  宗七  野間勝右ヱ門

◎木 鳥 居 (天満宮)朽ちてなくなっていた

◎一千五十年祭記念植樹の碑 −

      昭和二十六年(一九五一)二月 雁木区

◎潮 井 石 − 明治十年(一八七七)八月 坂尾巣次郎明茂

◎漱 盟 − 明治三十一稔(一八九八)六月

    坂尾 甚次郎  野口 郡市  久枝吉右ヱ門 外

◎牛 石 像 − 大正三年(一九一四)七月

    世話八  大貝 半三郎  兵道 武七

    石 工  松尾 近太郎

    改修工事移転

  開業五十年 記念 飯塚屋商店 小田 伊平

                       同 冨太郎

    旧店員     小田 源次郎  柳田 才蔵

    当時店員    石井 彦太郎  吉永 小七

    井上  万助  竹井  俊造  早川 金造

    花田  保造  立花  親造

◎燈 籠 − 弘化二年(一八四五)八月

    小田彦五郎常陸  小田定石衛門口種

※築山天満宮のあるところは地形が築山に似ているが、天満宮裏側をけずりとった際多量の庭石が出た。同石材は水巻町古賀地区の産であるから、昔たしかに人工の築山があったと思われる。(芦屋町誌・鶴原吉平氏談)

※花 火 大 会 −

築山天満害の祭典日には船御幸(ふなみゆき)の神事と共に、芦屋橋畔で打上げられる花火は、県下にも比類のない豪華なものである。青く澄みきった水面に映える大空の花、打上げ花火や仕掛け花火、パット開いたしだれ柳が、満船紅提灯に飾られた船上に消ゆれば、橋上はおろか遠賀川口の両岸を埋めつくす数万の観客は、壮観たとえようもない大空の祭典に、夜のふけるのも忘れるのである。 (芦屋の栞)

※戦前は漁船のある家々から又町内とか親戚招待とかで、紅提灯を船一杯に飾って水上よりの花火見物を年に一回の菜しみにしていたものだった。芝居見物と同じように御馳走をいろいろと沢山つくり、船上にて酒宴をひらきながらの花火見物は楽しいものだった。船頭さんも酒がまわり時には船と船が突きあたったり、すれすれになったり又船と船をくっつけて、お互に酒を汲みかわしながら料理を交換したり賑やかなものだった。筆者が小学生のころ金魚花火といって、水上でくるくる廻りながらパンパンと昔をだしながら水上をはね廻る花火があったが、一度などは船の中に飛び込んできたので驚いて皆が立あがったので船が左右にゆれビックリした事もあった。戦前の花火大会は遊船に乗って花火を見るだけでなく賑やかで楽しいものだった。以前は旧芦屋橋下流の山鹿側砂浜で打上げていたが、不発のものや横にそれた花火で怪我人が出た事もあり、危険防止のため最近は川の中ほどに浮べた浮ドックから打上げている。花火の本舞台は以前芦屋橋の下流であり遊船も数多く出ていたが、最近は芦屋橋の上流が本舞台となり遊船も数少なくなった。遊船は橋から上流には進入禁止。芦屋花火大会は七月最後の土曜日に催される。芦屋花火大会は現在芦屋町主催で行われているが筆者が子供のころには新聞社が主催であったような気がする。