大 君 炭 坑 の 跡 − 山鹿大君

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大 君 炭 坑 の 跡 − 山鹿大君バス停近くより撮影


跡地はグランドになっていた。


坑口跡はセメントで塞がれている


80年代の航空写真です。

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18 大 君 炭 坑 の 跡 − 山鹿大君

 (疫神社より徒歩三十分)

大君炭坑の開坑は明治二十七年(一八九四)頃である。日清戦争がはじまって炭界は好況をみせ、住友・三菱・三井などの大手資本がさかんに筑豊へ進出してきていた時代である。

 大君炭坑の初代鉱主は春田惟だったが、のちに城野琢磨が代って経営にあたった。大君炭坑は芦屋町山鹿(当時山鹿村)の大君にあって、江川村との境界に位置していた。採炭作業は筑豊の小炭坑がそうであったように、先山(さきやま)・後山(あとやま)による小切(こきり)羽(は)採炭法式がとられ、手掘りで掘った石炭はカゴで背おって坑内からひき出されていた。石炭は江川岸で川ひらたに積まれ若松港へ搬送された。坑夫たちは納屋(なや)に住み納屋頭の支配を受けていた。納屋頭は坑夫の雇入れから日常生活の管理、監督また作業の操込(くりこ)みや割当て、勤務の督励、坑夫賃銀の代理受取りにいたるまで取り仕切った。女の坑夫もいてはげしい坑内労働に従事していた。

 城野琢磨のあと、三好鉱業の三好徳松が大君炭坑の経営にあたった。明治四十一年(一九〇八)頃であるという。本社は折尾にあった。「芦屋の浜」(刀根為次郎)には大正五年(一九一六)二月大君鉱業株式会社によって大君炭坑が創始されたと記されているが、三好鉱業に勤めていた永沼徳次郎氏は大正八年(一九一九)ころ大君鉱業株式会社と三好鉱業株式会社とが合併して、三好大君鉱業所が設立されたという。三好徳松は附近の群小炭坑を合併して、大正八年資本金二〇〇万円で新たに三好鉱業を設立し、昭和初頭には高松本坑・高松二坑・高尾坑の三坑を主力として業にあたっていた。現在の中間市蓮花寺附近までが高松本坑の区域であった。三好鉱業は佐賀県伊万里線の不要軌条を買いもとめ、この軌条で高松本坑から大君まで鉄道を敷き、また折尾の引込み綿もつくって送炭の利便をはかった。三好大君炭坑は第一坑から第六坑まであった。採炭の盛んな時は大君に一四〇世帯ぐらいの採炭夫が居ったという。ボーリング使用による採炭方法もとられた。

納屋は鶴ケ浜や城ケ浦あたりに建てられていた。昭和九年(一九三四)ころ大君炭坑その他三好鉱業経営の炭坑が売山になり、日産コンツェルンの一翼である日本鉱業株式会社が経営にあたるようになった。

炭業界にも消長があったが、終戦後の昭和二十六年(一九五一)日本炭鉱株式会社が大君炭坑を引き受け、日炭第五抗として昭和二十八年(一九五三)から採炭を開始した。工員は約三五〇名、大君に住宅が建てられて五〇世帯が住み、あとは梅ノ木・頃末二鳥松などの社宅から鉱業所用の汽車で通勤していた。採炭量は月最高一二〇〇トンくらいで、出炭は六〇〇〇カロリー以上の洗中塊ばかりだった。石炭産業め斜陽化によって、採炭が打ち切られたのは昭和三十七年(一九六二)十月である。廃坑にともなって工員住宅は解体され鉄道も取りはずされた。昭和四十六年(一九七一)こゝに県営住宅が建てられた。 (芦屋町誌)