駅家(うまやじ)考

芦屋町郷土誌
「崗3号」より



 第二考
木村 俊隆氏へ














































































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第一考
向井 秀雄氏へ






































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第一考

芦 屋 千 年

向 井 秀 雄    


 「あしや」という地名をしるした、現存する一番古い文献は「散木奇歌集」という平安貴族源俊頼の私歌集である。俊頼は字多源氏、小倉百人一首「うかりける―」の作者だが、承徳元年(一〇九七年)白河院政のはじまって間もないころ海路ここへ来た。彼の父親、大宰権帥経信が任地で八十二歳で没し、その葬儀をすませたあと都へ帰る道すがら、船をとめ、風景に寄せてその悲しみを詠んだ四首の歌が、ことばがきとともにこの集に収められている。芦屋の歴史資料として注目したい個所は、俊頼が船中から「琵琶法師の琵琶をひけるをほのかに」きいていることと「浜に綱の見ゆる」さまに目をとめていることである。

 全国を流れ歩いて源平の悲歌を語った琵琶法師のことはたれでも知っているが、これはまだ平家の栄華すら、はじまっていない時代である。法師たちの弾じたのは、今様ででもあったろうか。ともかくそういう芸能の徒がすでにいて、川のほとりには、彼らを宿泊させる余裕のある家屋もあったことがわかる。そして海岸か川岸かに綱が干してあったということは、ここに漁民も住んでいたことを証拠だててくれる。しかし俊頬は上陸もせず、船中で苫をひき寄せて雨をしのいでいる。さびしげな船着場という印象が先に立つだけで、このあたりの集落がどのような形、どのような規模であったか、これだけではわからない。

 この俊頬の来泊からほぼ四、五十年あと、鳥羽院政期(十二世紀なかば)と推測されるある年の秋のある日の「葦屋津」の姿が「本朝無題詩」という漢詩集の中に、もう少しはっきりと描きとどめられている。

(無題詩とは課題詩でないもの、自由に思いをのべた詩という意味で、関白忠通の命で、当時の代表的詩人三十人の自由作品三百七十首をあつめたもの)

 その中で九州出身と見られる釋蓮禅という憎がおのれの老境失意の心情を、山鹿岬の沙岸の松根だとか、田んぼの稲穂だとかいった点景によせて、切々と美しくうたいあげている。そこに当時の津の実況が、期せずして具体的にとらえられている。着葦屋津有感と題する七言律の第三句から第六句に、

 

向津上下客舟集 旅人をのせた舟が津に向って、川を上下しなから集っている。

分岸東南民戸重 川の両岸には東側も南側も、民家の屋根が重なって見える。

土俗毎朝先賣菜 土地の風俗で、毎朝野菜売りがやって来る。

釣魚終夜幾焼松 夜どおし魚釣舟で、たくさんの松明をたいている。

とあるが、これらの描写から推測できることは、ここが明らかに漁村ではなく「みなとまち」であることだ。東と南とに同時に相当な集落を見たというのだから、その視点となった泊地は、ほぼ今の芦屋橋付近であり、東岸とは今の山鹿と同じところ、南岸とは西浜、中ノ浜あたりであろう。旅客をのせた舟の往来が、かなりのにぎわいてあったことは、ここに舟運を業とした人たち、つまり「非農民」という古代律令制社会にとって、ワクをはみ出した人たちが、根をおろしていたことを物語る。

 さらに夜通し漁火をたいて魚を獲る漁民も入りまじって住んでいたこと。また毎朝、近郷から野菜をかついで売りに来る農民がいたこと。注記によれば黄瓜と紫茄だとあるが、市日でもないのに、毎日こういう振売りをしていたとすれば、津の民家へ売るにしても、停泊中の舟へ売るにしても、物々交換でなく銭貨で売り買いしていたと見なければならない。平安末期といえば、輸入宋銭が都を中心にようやく地方にも流通しはじめた時代だ。このあたりの、この時代の農村でも、貢納と自家消費のほかに、それを売って銭を得るだけの余分な作物が生産されはじめていたのだ。農耕技術と生産性の向上が、古代的な、調帝の民をその境遇から一歩前進させていたことを証明してくれる。

 ちょうど保元・平治の乱の直前期の葦屋津に生きていた人たちの暮しぶりが、このように詩人、歌人の目で描きとどめられている。京畿以外では、ほとんど例のない貴重な記録といわねばならない。

 さて、俊頼、蓮禅などが見た葦屋津の姿は、このままもう少し前の時代に、さかのぼらせることができるだろうか。それにしても「あしや」の名が、この二つの詩歌集以前の文献に全く見られないことをどう理解すべきだろうか。

 社会・経済史の常識からいえば、古代社会は農耕と漁労という一次生産以外には、せいぜい手工業的家内生産があっただけである。京・大宰府のほかでは工商専業の民というものはほとんど存在しえなかった。国中どこまで行っても、ただ農家ばかりであった。

 十世紀のはじめ延喜年間(九〇五年)に令の施行細則として定められた「延喜式」と承平年問(九三〇年代)に編述された「倭名類聚抄」などによって古代末期のこの地方の様子を推測してみよう。

 遠賀(おか)の郡(こおり)のうち大川の西岸は、いまの芦屋・遠賀∵岡垣三町の区域を通じて、内浦(うつら)垣前(かきざき)の二郷があっただけだ。一郷は五十戸で編成されたのだから、あわせて百戸前後がまばらに住んでいた。川の東岸、いまの芦屋町山鹿から若松区全体をふくむ山鹿島も一郷五十戸。漁業と製塩とそれにわずかの田畑を耕す人々がいたに過ぎない。当時の庶民の戸籍簿から、一戸平均二十人と推算してみても、このあたりは人烟きわめて少い地であったと見ていい。人麿も「神代し思ほゆ」と詠んでいる。  (万葉集巻三)

 このうち垣前・内浦二郷百戸の民家が、多分郡司の館をふくめて、いまの岡垣町青木・内浦を中心に散在していたらしいことは、外の資料からも推定されるし、当時の農具や水利技術からいっても、まずあのあたりの山寄りの平地にしか農地は得られなかったはずである。海風が強く砂丘ばかりがうず高く連る、いまの芦屋町域は、たやすく人の住めるところではなかった。

 では当時「おかの津」と呼んだ港津は、どこにあったのだろうか。太宰府と京を結ぶ当時の官道――駅路(うまやじ)は、宗像の津日から内浦・垣前を通り、大川を渡って次の夜久(やく)の駅(八幡西区西南部)へ抜けた。その渡し場を兼ねて島門(しまど)の駅があった。道順と地形からいって、その渡し場は今の遠賀町鬼津・若松の岬状台地のほとりにあった可能性が最も高い。そしてここに太宰府所管の舟を常備した記録があることから見ても、この島門の駅こそ郡の津、すなわち「おかの津」であったと考えるべきだろう。その浜つづきに当るいまの芦屋町浜口の小丘陵に、当時の郡司の寺であったと思われる廃寺跡が見られること、また岡湊神社が吉木の高倉神社の下宮として、もとこのあたりにあったという伝承を持っていることも、その裏付けとなろう。

 この駅路はいわば当時の国道一号線ではあったけれども、もっぱら官人の往来のための道路、兵部省の管理する軍道であって、日々の交通量は取るに足りなかったはずである。時に大宰府に向って貢納の荷を背に歩む農民の姿や、また当時九州でとくに多かったという逃散浮浪の徒の横行が見られたにしても、彼らが路用の銭など持っている時代ではなかったから、舟付場に物売りの店が並んでいるということはありえない。島門の津がいかにさびれていたかということは、官舟二隻がくち果てて放置されているという公文書があることからもうかがえる。(三代實録、貞観十五年五月十五日)そういう「おかの津」と、のちの芦屋の津とは、その性格も、あった場所も全く別ものである。「おかの津」を単純に、芦屋の津の古名だと考えるのは正しくない。

 十世紀以前の文書、記録に「あしや」という名が見えないのは、やはり新しい名を帯びた集落が、新しい場所に誕生したのだと見るべきだろう。おそらく、島門のあたりの、風土記にいう「大江」が、次第に砂に埋って、泊地として不適になったというフィジカルな原因とともに、王朝政治の衰えるにつれて、官道の渡し場、舟付場の役割りも終りの日を迎える、という事態が、九・十世紀ころに起きた。その一方で、律令体制から見れば、その反逆者・破壊者である私営田領主、公領の横領者―粥田氏や山鹿氏の一族が、この川筋の上流、嘉麻・穂波・鞍手の各郡に、広い荘園をかこいこむにつれて、京の権門へ私的にその貢納物を輸送するという新しい流通路が必要になってくる。川筋を川舟で、そして川口で海船に積み替えるという作業が、当然ここに水主・舵取など輸送労働に従事する人たちを生む。農地を離れ、荘園管理者の扶知で暮す人たち。それ以前の古代社会には存在しなかった人たちである。彼らの住まい、芦の苫屋が次第にこの川口の漁家にまじって数を増す。

 憎蓮禅の見た民家の屋根の重なり、耳にきいた野菜売りの呼び声は、そういう誕生間もない芦屋の新しい風物だったのだ。芦屋千年の歴史はこうして始まったと考えられる。

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二考

嶋門の駅家考

木 村 俊 隆  

 島門の駅家と云えば、郷土史に興味を持つ人であれば、誰もが直くに太宰官道の駅家を思い浮べることと思う。ところがそれ程までに、知れわたっている島門の駅家に就いての研究は、極めて少いようである。研究本としては、江戸時代の末期に筑前の国学者として有名な青柳種信が著した島門考がある。この島門考も今では見ることさえ困難で、種信の門人伊藤常足の著した太宰管内志に僅か島門の記載事項が見られる位ではなかろうか。

 管内志も「延喜式」の記載事項を載せているが、当時の全図の官道の駅家を知る中資料としては、「延喜式」が最も勝れたものである。

 そこで、延喜式巻第二十八、兵部省の部を掲げると、

筑前国駅馬

  獨見、夜久各十五疋。嶋門廿三疋。津日廿二疋。席打夷守、美野各十五疋。久爾十疋。佐尉。深江。比菩。額田。石瀬。長丘。把枝。廣瀬。隈埼。伏見。綱分各五五疋。

筑後国駅馬(省略)

 伝馬

  御笠郡十五疋

豊前国駅馬

 社埼。到津。各十五疋。田河。多米。刈田。築城。下毛。宇佐。安覆各五疋

 と記載されている。「延喜式」巻第二十八の末尾を見ると、

 延長(九二七)五年十二月廿六日

  外従五位下行左大央臣阿刀宿弥忠行

  従五位上行勘解由次官兼大外記紀伊権分臣伴宿弥久永

  従四位上行神祇伯臣大中臣朝臣安則

  大納言正三位兼行民部卿臣藤原朝臣清貫

  左大臣正二位兼行左近衛大将皇太子傳臣藤原朝臣忠平

 と記載があるか、何れの巻末にもこれと同じように記載されているのを見ると、「延喜式」が今より一〇四八年前に、醍醐天皇より勅命を受け、藤原忠平を初め、藤原清貫、大中臣安則、伴久永、阿刀忠行らの編纂した律令の施行細則法であることが判る。「延喜式」は二十年の歳月を経過して編纂されたもので、現在、完全に残っている我が国最古の法令書である。そのため史料的に言っても価値が高く、日本全土にわたる当時の駅家が誌るされ、平安時代初期の道路を知る上でも、真に貴重な史料である。

 「延喜式」に誌るされている駅家は、何れも現在の国道に相当するもので、

一、大路 都より太宰府をつなく道

二、中路 東海道及び東山道(江戸時代の中仙道に当る。)

三、小路 国府と国府の間をつなく道の三区分があったっ道路区分による相違は、

(道理区分)(馬の備付数) (駅田) (駅間距離)

  大路    二十疋   四町歩  当時の三十里

  中路    十 疋   三町歩  右に同じ

  小路    五 疋   二町歩  右に同じ。

となっていた。備付の馬数は、状況に応じて国司から太政官に申請して変更することが出来たが、それは五疋以内で、

 大路は、十五疋から廿五疋までの備付

 中路は、五疋から十五疋までの備付

 小路は、五疋から十疋までの備付

とすることが出来た。

 この定めによって豊前国と筑前国内の太宰官道の駅家は、

 (豊前)社埼十五疋。到津十五疋。(筑前)獨見十五正。

 夜久十五疋。嶋門廿三疋。津日廿二正。席内十五正。夷 守十五疋。美野十五疋で、豊前国が二駅、筑前国が七駅、その他の駅家は備付の馬数から考えると何れも小路の駅 家であるので、太宰官道の駅家ではない。

 貝原益軒は、その著書「筑前国続風土記」に、石瀬の駅家を中間市岩瀬の地に比定し、あたかも太宰官道の駅家であるかのように書いているが、前記の石瀬の備付馬数から考えると太宰官道の駅家でないことは明らかてある。「延書式」は駅順に書かれていて、石瀬の前に書かれている駅家は、額田で、あとに書かれている駅家は長丘であって、中間市の岩瀬の地に、石瀬を比定することにも無理がある。叉隈埼の駅家を、北九州市の黒崎の地に比定する者もいると聞くが、これも備付の馬数から言っても、廣瀬、隈埼、伏見と書かれている駅順から言っても明らかに間違いである。

 駅間距離については、「令義解」厩牧令第廿三に、諸道に駅を置くときには卅里毎に置き、若し地勢が険 阻であったり、水や革のないときには便にしたがって安置せよ。

 と定めている。当時の一里というのは六町で、現在の三十六町の六分の一で、五里にあたる。「令義解」の定めによって、駅家と駅家の間は大体五里で若干の相違もあった訳である。

 以上の考察によって、九州島内の太宰官道は、大路で、駅家は社埼、到津、獨見、夜久、嶋門、津日、席内、夷守、美野の九駅であることが判然として来た。ところがこの駅数は「延喜式」の編纂された延長五年即ち九二七年代の駅数で、奈良時代の駅数ではない。大同二年の八〇七年代には、豊前国が前記二駅、筑前国は九駅あり、合計では十一の駅家が九州島内にあったのである。即ち、

 大同二年十月廿五日の太政官符に、

 筑前図九駅、豊前国二駅。惣十一箇駅。

 とあり、また、これは太宰府より京に向っ大路であるとし、元来駅別に馬廿疋を置いていたが運送する貨物が減じて半分位になったからと言って、各駅共に五疋を減じて十五疋にするように願出て、許可されている史料が遺っている。

 大同二年即ち八〇七年までは、太宰官道の各駅家には「令」の定めどおり、廿疋の馬が備付けられていたが、同年十月廿五日以降に豊前の二駅も筑前九駅も備付の馬数は十五疋となった訳である。

 ところが、「延喜式」では、嶋門の馬数は廿三疋、津日は廿二疋と記載されている。これは両駅が重要であるから増加されたとは決して考えられない。廿疋から十五疋に減少し、この両駅だけか、七疋と八正の馬を増加することは果して如何なる理由によるものであろうか。

 大同二(八〇七)年に筑前国では九駅あった太宰官道の駅家が、延長五(九二七)年の百二十年間に七駅となり、二つの駅家が減少されたことが判るが、この廃止された駅の一つが嶋門、津日の間の駅家で、恐らく水草に恵まれず、駅家を運営維持する住民が不足し、駅田の耕作にも困難を来したのではあるまいか。そのため備付の馬は両隣の駅に分けられ、嶋門に八疋、津日に七疋、これによって嶋門が廿三疋、津日が廿二疋となったものと思える。

 廃止されたもう一つの駅家は、蘆城の駅家である。蘆城の駅家については、「大日本地名辞書」に、「今御笠村大字阿志岐あり、大石の南に存す。古の蘆城駅家は大石吉木をも籠め、今の御笠村金地を指せるならん。筑前名寄に、宰府より米山をこえんには蘆城駅を通ると日へり。米山は上穂波村に属し、大石の東一里、竈門山と根智嶽の間に在り。蘆城河は即ち室満川の上流にて、南流して筑後川に往くもの是也。延喜式に蘆城駅なし。太宰少弐石川足入朝臣、遷任餞干筑後国、蘆城駅歌、

 悪木山木未ことことあすよりは

  靡きたりこそ妹があたり見む   万葉集

太宰府諸卿大夫併官人等、宴筑前国蘆城駅歌

 をみなへし秋はき交る蘆城の野

   今日を初めて萬代に見む      万葉集

 珠くしげ葦木の河を今日見れば

   萬代までに忘らえめやも     万葉集

というのがあって、万草集に蘆城の駅は数多く見え、奈良時代に存在したことは確かである。

 延喜式に記載されている道路が、官道と云われる所以は、国から駅馬は勿論、鞍具や蓑笠を初め宿泊設備までされ、駅家や人馬の利用は官人に限られていたからである。それに引きかえ駅家の長は、駅のある部落の長で、駅子もそこの住人であった。駅子は駅田を耕し、宿泊する官人には食事まで提供していた。

 駅家は駅馬の利用する官人たちは、位階によって異った駅鈴か貸与され、その駅鈴を示すことによって駅馬などの使用か可能となっていた。

 駅鈴は、親王及び一位の者には十剋、三位以上の者には八剋が貸与され、勿論位階の高い者ほど剋数の多い駅鈴が貸与されていたのである。

 駅鈴には刻みがあって、その刻みの数によって、利用出来る馬数なども異っていた。

 駅鈴は、中央官庁と地方国衛に備え付けられていたが、地方の国衛では国の等級によって備付数に差があった。大・上図には三十個、中・下回には二十個、太宰府には二百個の駅鈴が備え付けられていた。筑前国は上国であったから、駅鈴は三十個の備付があった訳である。旅をする官人たちは駅鈴を示すことによって駅馬などの利用が出来、その駅鈴は馬の首にかけて通行し、馬が歩行することにより、駅鈴は長閑な音色を響かせて、駅に近ずき、これによって旅人の到着を知らせ、人馬の準備を早目にさせたといわれている。万葉集に、 さふる子がいつきしとのに鈴かけぬ

   はやま下れり里もとどろに

という和歌がある。

 嶋門の駅舎の保守は、貞観十八(八七六)年以前は、肥後国が担当し、駅舎の備付物品は筑前図が補給していた。肥後国では、嶋門の駅家から遠く離れ、駅舎の管理が充分でないことを理由に、筑前国に振替担当を、太宰府に申請し、太宰師、在原朝臣行平は、その旨を太政官に上申し、右大臣藤原朝臣基経から、貞観十八(八七六)年三月十三日付の太政官符で、認可されている。また、嶋門の駅には、二隻の船も備え付けられていた。ところがこの船がいつ購入したか判らない程老朽したので、早く買い替えるように、天長元(八二四)年六月廿九日付で「格」が出されている。

 最後に嶋門の駅家の所在について考察を進めて見たい。太宰管内志に、「我友(松本氏云)島門ノ駅趾は、遠賀郡鬼津、若松両村の内にあるべし。里人語伝にも、上古は此辺すべて入海にて、若松村住吉社の船の著ク処なりと云。東は、同郡吉田村貴布弥社の前渡りロなるへし。是も、上古の船著なる由、云伝たりし云り。此説きも有ルベし。夜久ノ駅より島門ノ駅に渡る道筋なり。」と載せ、常足翁は「若松に対える処は、古賀村など遥に近ければ、此辺や・・」と、嶋門の駅趾の地を定めかねている。

 何しろ千年も前の駅趾である。遠賀川も幾度かその流れが変遷し、現在の地形によって千年前の地形を推測することは、真に困難な問題である。昭和卅五・六年頃に、閉山した炭坑の廃墟が、僅か十数年を経過したたけで、甚しい変形振りである。正確な嶋門の駅趾は大々的な発掘調査でもしなければ判りがねるもので、発掘調査をしても、果して判明するかどうかさえ、いいえないものである。全く推理による外、駅趾を探すことは困難な問題で、もし筆者に大胆な推理を許して載けるなら次のように推理をする。

 先づ、藤原不比等らによって編纂された大宝律を刑修した養老二年(「七一八」)律の第二、職制律によって当時の道路通行の違反に対する刑罰から述べて見たい。凡増乗駅馬者。一疋杖八十。一疋加一等主司知情。与同罪。不知者勿論。

凡束駅馬軒枉道者。五里苔五十。五里加一等”越至他所者。各加一等。経験不換馬者。苔卅。

と定められている。初めの規定は、駅鈴の箇数と刻みにょって貸与される駅馬の数は定められているが、これより一疋多く駅馬を使用した者に、刑罰として杖で、八十撲り、更に一疋多く使用した者には、罪も一等重くなることが定められている。又その実情を知っていたときは、駅馬を貸した者も同罪と定め、知らなかった時は、無罪である旨を定めている。次の条文では、官道を通行せず、脇道を五里通った者には、苔て五十撲る旨が定められ、更に五里脇道を通った時には、罪も一等加わると定められている。また、外の土地に、官道を越えて行った者にも罪一等が加わっている。当時駅馬は、次の駅までしか使用出来なかったが、次駅を過ぎても馬の乗替えをしなかった者は、苔で四十撲られることが、定められ駅馬の使用や通行規定は、なかなか厳しいものであった。

 これから考えると、太宰管内志で、「さて(師説)に、と云って青柳種信の説を、掲げている。これには、「万葉集三卑柿本朝臣人磨下筑紫国遍路作歌、

 大王之遠之朝廷跡蟻通

 島門乎見者神代之所念

とあるのは、遠賀郡ノ島門を云なるべし。神代とあるのも、仲哀天皇又神功皇后の御幸の道筋なれば、其御代のことをいふなるべLといわれしなり。」と書かれている。

即ち、柿本人麿が、筑紫国に下る時に、海路を利用し、その船の上で詠んだ歌が

大王之遠之朝廷跡蟻通

島門乎見者神代之所念

の歌である。遠の朝廷とは、太宰府のことである。人麿が詠んだ歌は、船の上から島門の方を見ると、太宰府に向って陸路を行く人たちが、まるで蟻のように小さく、たくさん見える。

 仲哀天皇や神功皇后が、この辺りを通ったときのことが想われる。」と云った歌であろう。仲哀天皇は響灘を航行して山廉岬から岡の水門に入っている。人麿が仲哀天皇通った所の船の上で詠んだとしたら、島門の駅に向って、歩く人たちは見えない筈だし、もし見えても、この想像には正確に地形を考察すれば無理が生ずる。神功皇后は洞海から、今の江川辺りを通って、仲哀天皇と一緒になっている。この行程から島門に向って行く人たちを、船の上から見るとよく見えるのである。この和歌から考えると、嶋門の駅家は、遠賀川の西岸と考えるより、東岸にあったと考える方が妥当である。歌には「島門を見れば」と詠まれ、太宰府に下る人たちが見える地点と言えば、洞海湾か或は今は川となっている江川地帯としか考えられない。

 又、管内志の「垂間野の橋」の項に、「藻塩草」に筑前たるまの橋、又、「懐中抄」に、

 島伝ひ門渡る船の梶間より

   落る雫やたるまののはし

と云うのがある。「島伝いに門を渡る」と云うのは、現在の若松区、即ち江川より以北の地が島であり、遠賀島とも呼ばれ、今も島郷の地名の残る地である。古い地図を見ると、今の江川地帯は狭い海峡となっているが、この遠賀島伝いに、海峡を渡ると云うのが、この歌の意味であろう。

 遠賀川の西岸にある島津の地名は、島に渡る港と、解釈した方が自然で、嶋門の駅家に、渡る港と考えてもよいものである。こうなると嶋門の駅家のあった所は、江川地帯の九州本土と遠賀島との間の狭い海峡近くであり、そこで嶋門と云う地名が、生じたものではあるまいか。もしそうであるとすれば人麿の和歌とも吻合し、太宰官道の機能喪失した後にも、この道路は使用され、朝鮮の役には豊臣秀吉もこの道を通り、毛利家の部将そ津和野の城主であった吉見元頼も此所を通行し、更に石田三成もこの地帯を通っている。これより前の文明年中宗祇も博多から蘆屋、蘆屋から若松に行っている。

 江戸時代に入って、筑前六宿が整備されるまでは、前記のコース利用は多く、万葉集は勿論、類聚和歌、夫木集に蘆屋近傍を詠んだ歌が数多く見えるが、「律」の規定を考えるとき、この地を官道が通じていたこと歴然たるもので、鬼津や若松村に、嶋門の駅家があったとは到底考えられない。

芦屋町郷土誌「崗3号」より

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