69 垂間野橋(たるまのはし)の跡の碑−(旧中小路) 西浜町八−一〇 (碑 文) 貝原益軒贋の筑前国続風土記に「むかし芦屋と山鹿の間東西に渡せし往来の橋也。今はなし」と記されている。垂間野橋は太宰管内誌など種々の文献に見える。金台寺は「垂間道場」、寺よりこの橋に至る横町は「垂間野筋」と呼ばれていた。遠賀川では時代的に最も古い橋であったと推定される。 ※浜崎浦の石波止の項に記したる如く此の波止明治十二年の境に破壊し、同二十四年の大洪水にて大破損を来せしかば、西風の為め海中の白砂湊内に浸入し、山鹿浦の海岸に高洲を生じ、漸次に上り渡場をも埋めんとし、芦屋の浜崎下も同じく洲を生じ、両郷間僅かに数間となれり。 (また) 彼の仲哀天皇の 玉フ 「自 山 鹿 岬 廻 之 入 崗 浦」 二 一 レ 二 一 と書紀に記されたる崗水門と称するは、今の芦屋湊には非ざるべし。往古は今の湊は河口浅く渡場の辺は葦など生茂りて巨船大船などをば容るべき湊にはあらざりしが如し。 上古の崗水門は山鹿の狩尾岬と洞山との間より入りて、芦屋の祇園崎より浜口の辺にて・・・・・東は猪熊、古賀・杁・頃末辺までの入海の口なるべし。 垂間野の橋の如きも、近古船舶の幅輳せし水深に、かてゝ加えて西風猛烈なる湊内に於て、目下の如き工学の進歩せざる時代に架橋せんこと夢かのう間敷、(前述の如く浜崎浦の波止なき時は、芦屋側と山鹿側に洲を生じ其の間僅かに数問となれり)葦立の浅水なればこそ橋も架けつらめとおぼえぬ。仍て記して後の識者の参考とはなしぬ。(遠賀郡誌) |