金 台 寺 −(旧中小路)

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金 台 寺 本 堂 −(旧中小路) 西浜町1−22


石門柱 − 大正五年(一九一六)一月 江嶋 徳太郎


総 門


鐘 楼


石燈籠 (暗照)− 明治四十二年(一九〇九)三月


子安地蔵 −(町指定有形民俗文化財)


故 吉田保警部補殉難之地の碑


吉田千鶴之墓 −文化十三年(一八一六)八月


麻 生 氏 の 墓 群


鳥居 (熊野大権現)−天保七年(一八三六) 九月


秋葉大権現 熊野大権現 金比羅大権現が祀ってある。



吉 田 磯 吉 の 父 母 の 墓


吉田磯吉の父母の墓
のお掃除中の縁故の方


吉田磯吉の父母「徳平と佐久」の墓


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 芦屋の金台寺を訪れた時、吉田磯吉の父母の墓を掃除しておられる縁故の方に偶然にも会うことができ、歴史上の人物のお話をお聞きできましたので書くことにしました。

 吉田磯吉のプロフィールを簡単に書きますと若松の明治大正の時代を生きた任侠代議士として色々な逸話が残る人物で、息子は元若松市長で吉田敬太郎である。

 その磯吉の縁故の方の話です。

 磯吉の父は吉田徳平といい松山藩の武士であった。磯吉の祖父は徳右エ門といった。徳右エ門の藩主である久松家は寛文11年(1671)伊勢の桑名藩から松山15万石に転封された。寛永11年(1634)吉田家の初代吉田平右エ門の時、すでに桑名藩の勘定奉行に従事しており、桑名藩時代からの家臣であった。9代目の徳右エ門の時、息子の徳平(磯吉の父)が何かの理由で同じ藩の武士を切ったため、祖父徳右エ門は責任を感じ藩を離れ隠棲し寛永5年(1852年)に死没しました。事件を起こす前、事件を起こした磯吉の父徳平は吉田家10代勘定奉行として従事して、松山藩士の吉田四郎右エ門の娘、「乃武」を妻に迎え、二人の子供「平助」、「曾乃」が生まれています。妻「乃武」と子供二人を連れ、事件後、脱藩し諸国を流浪する身になりました。

 その流浪の途中に妻「乃武」は病死します。徳平は子供2人をつれ九州に渡り、筑前宗像郡神湊に下り、永島忠吉(宮司?)を知りその援助で神湊で暮らし始めました。

 その後の息子は養子にでも出されたのか定かではないが、娘の曾乃だけが一緒でした。

 神湊で四〜五年暮らし、世話人の紹介で、その頃、まだ栄えていた芦屋町に行きます。芦屋町で生活を始め、独り者であった徳平は、山鹿で世話になっていた波多野次三郎の紹介で、娘「曾乃」を中西伊助(漁師)の所に養女に出し、本人はその波多野次三郎の娘「佐久」と結婚をします。

その佐久との間には三人の子供が生まれ、上の二人娘で「スエ」、「もん」、三人目に磯吉が生まれました。

 元服した磯吉は、初め祖父の名「徳右エ門」を名のりますが、すぐに磯吉に戻しています。

 その頃若松で連花町遊郭で貸座敷「大吉楼」を経営していた葉山嘉一と結婚していた姉「スエ」に、母親のようにしかも金銭的にも良くして貰っていました。磯吉は「スエ」のはからいで下関市外福浦港の貸座敷業の田中家に養子に入ります。しかし「スエ」の思惑どおりにはならず、奔放に育った磯吉は貸座敷業などの若主人は勤まりませんでした。養子縁組を解消し、「スエ」の大吉楼に帰って用心棒みたいな仕事をししました。それからも破天荒の事をしていた磯吉にまともに成ってほしい姉「スエ」は独立して何かやってみろと資金を出した。

 「姉のおかげでいっぱしの川ひらたの船頭にもなれた。」と、後に磯吉は述懐しています。

 そして、いよいよ本人も若松で花と龍などにも出てくる親分としての頭角を現し始めます。

 お話していただいた中西さんは、磯吉と、どんな繋がりがあるのか。ということですが・・・その方の曾祖父の名前は中西善五郎と云い、磯吉の腹違いの兄弟となる姉の「曽乃」(中西伊助(漁師)養女)が結婚をしたのが中西善五郎であるということです。芦屋では中西の姓が多いため判りにくいが、中西伊助と中西善五郎は親戚関係ではないそうです。

「曽乃」の戸籍を見せていただきましたので間違いはないようです。

 吉田磯吉と親戚関係であると50歳も過ぎて知った、お話いただいた中西さんは、芦屋町の金台寺(こんたいじ)に墓があることを聞いたそうです。六年前台風で倒れ破損して無縁仏のようにになって荒れ果てている磯吉の父母の墓を見つけ、墓を復元したということです。

 それでは何故、代議士にもたった磯吉の父母の墓なのに無縁仏のように荒れ果てた状態になったのであろうか?・・・・。

 それは、磯吉の長男である元若松市長でもあった吉田敬太郎はクリスチャンであったためである。

 金台寺の元住職の奥様の話では、磯吉の代の時には、頻繁にお参りにこられ、寺にもいろいろ多大な寄付をしてもらっていたそうですが、このところ、無縁仏のようになっていたので何かと心配していたそうです。

 今は中西さんに手厚く守られています。

                        おわり    2009年6月記す

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刀根午吉之碑 − 昭和十五年(一九四〇)三月


建替える前の鬼瓦が保存してあった

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66 金 台 寺 −(旧中小路) 西浜町一−二二

 海雲山と号す。時宗遊行派本山相模国藤沢山清浄光寺末なり。

寺伝に応安元年(一三六八)一遍上人より第七世像阿上人(上総国久野村の産)開基すと云う。本尊彌陀三尊の像は安阿彌が作と云う。当寺は山鹿麻生氏代々の菩提所にて、古えは寺領も数多くありしとかや。この寺は垂間野橋(たるまのはし)の上にあり。因って垂間道場といえり。古き文書には山鹿の金胎寺ともあり、芦屋も昔は山鹿の庄の内なりし故かく云うなり。(遠賀郡誌)

※大同元年(一四六六)唐土より帰朝した空海は、諸国を遍歴して所々に寺を建てたといわれるが、金台寺もまた空海の開基したものという説もある。(芦屋の栞)

◎遊 行 上 人 様 足 洗 い の 石 −

遊行上人が金台寺に来られたとき、寺の門をはいる前に、旅によごれた足をすゝぎ洗いした台石が、この石であるといゝ伝えられている。

※江戸時代隠目付(かくしめつけ)と云われた遊行上人は、諸国を巡行して、諸藩の政治を批判する権限を輿えられていたので、各藩とも上人が巡国して来るという知らせを受けると、諸侯は大変なもてなし方で、上人を迎えたものである。こうした地位と名誉と権限を有していた上人も、九州入りの際には必らず此の金台寺に宿泊するのを常としていた。金台寺はそれほど由緒ある古刹であった。

今の金台小路は上人が金台寺に宿泊する時、伴人達が多人数泊る宿舎のあった所だといわれている。(芦屋の栞)

※遊行上人というのは、時宗の開祖二癌に名づけられた名称である。二遍以後、時宗の僧侶は一遍と同じように日本全国を巡り歩いて念仏弘通につとめたので、遊行上人と呼ばれた。元禄七年(一六九四)にも遊行上人(四十三世)は筑前に下向しているし、また安永二年(一七七三)の藩記録にもあるが、芦屋金台寺には延享三年(一七四六)が初の下向滞在であった。

延享三年遊行上人が滞在したときの文書が残されている。わずか一〇日間ほどの滞在ながら受入れ準備、接待、送迎などに、福岡藩当局がいかに細く心をくばったかがくわしく記されている。当時の金台寺住職は覚阿であった。延享二年八月覚阿は蒲庁に呼び出され、寺社奉行四宮甚太夫から明春遊行上人が下向して来ることを知らされた。覚阿は博多の弥名等(住職柏阿)と連絡して受入準備にかゝった。弥名寺は金台寺の本寺である。藩では遊行上人掛りとして、御用聞衆喜多村安右衛門・御在用方石川源次・関屋六兵衛の三名ほかに脇役四名を定めた。遊行上人(本山五十一代賦存大上人)は石州益田に滞在中なので、覚阿は相阿と連名の手紙を出した。十一月には益田から遊行上人の連絡の使者が来た。覚阿は藩庁に願い出て路銀として銀十枚を下げ渡され、十二月十七日石州益田へ旅立った。十二月二十七日には普請奉行林七郎右衛門が、手附・大工棟梁をつれて芦屋に出張し、普請の打合せをした。芦屋の代官は権藤伊右衛門であった。延享三年一月七日喜多村安右衛門が相阿と同道して金台寺の見分にきた。光明寺の霊誉と代官権藤とが立合った。覚阿が石州から帰寺したのは一月十五日である。十七日から賄所その他の普請がはじまった。芦屋・山鹿の大工二〇名が上人の居間などの建築にあたった。建築用材木は高倉村百合野山、天井板は黒崎山、木は島津・高須各村のものをつかい、柱石は古賀村から切り出した。坂の割石には山鹿城山の洲口のものを使用した。材料を運ぶ用船の支配は山鹿の岩崎清兵衛がした。称名寺からは人夫の日用品・大釜・朱塗膳椀三〇名分・味噌・香の物・大根漬などを届けてきた。賄所は油屋十兵衛が引きうけ、料理八三名を置くことにした。遊行上人の宿所は金台寺、御町衆の町内の宿割りも定められた。遊行上人は石州益田から津和野・山口・下関の道順をとり、三月下旬小倉に着いた。四月十日御先使三名が芦屋にきて今浦利兵衛方に泊まった。藩からは財用方石川源次・宇美小兵衛・薮角右衛門が芦屋に出張した。上人逗留中の世話や警備にあたるのは郡代山中甚六と代官権藤である。遊行上人は四月十四日朝黒崎に着いた。覚阿は旦那中三名をつれて挨拶にゆき先に帰寺した。同日午後、上人一行は芦屋に着き、金台寺で役人との対面が行われた。上人逗留中は無遠慮参詣はまかりならぬと触れ出されていたが、当地は初の御移りゆえ、一般の参詣は自由ということになった。御着きの夕には芦屋町の若者・子供二〇名が給仕人として出ている。遊行上人滞在中は寺社奉行も芦屋に来るし、また別に藩から見舞の使者も派遣された。称名寺からも使僧がきた。上人は十八日鎮主権現に参詣し、二十日は光明寺に招かれて霊誉の接待を受けた。芦屋・山鹿の住民のなかには、剃髪刀願いを申し出て許され、剃髪の執刀をしてもらった者もいる。亡父十三回忌の回向をしてもらった者もあった。出発の前日、遊行上人から役人等へ下され物があり、また手附・大庄屋・庄屋・組頭・料理人にいたるまで御名号一幅を下された。大願寺(山鹿)称養寺(上上津役)吉祥寺(香目)西光寺(桟木)西光寺(糠塚)宝樹院(山田)など近郊の寺々えは、同門ではないが末々まで御願いという口上もあった。遊行上人が芦屋を発ったのは四月二十三日朝である。金台寺本堂で三礼拝御十念の後出発した。覚阿は旦那中といっしょに新町口まで見送った。藩から来ていた役人たちはすべて上人の供についた。(芦屋町誌)

◎石 門 柱 − 大正五年(一九一六)一月 江嶋 徳太郎

◎総 門 −

◎鐘 楼 −

◎石 燈 籠 (暗照)− 明治四十二年(一九〇九)三月

         江島 徳太郎  小山 藤七妻しげ

◎本 堂 −

 遠賀 川西四国第八十五番札所

 本尊 聖観世音菩薩

◎子 安 地 蔵 −(町指定有形民俗文化財)

 (説 明 板)

この大地蔵(坐像)は総丈け二メートル四千三糎木彫金箔のもので、江戸時代中期の作と伝えられているが、同時代の彫刻では県下でもすぐれた作の一つである。左手に宝珠、右手に錫杖を持っている。愛宕地蔵または将軍地蔵と呼ばれるものである。又体内には源頼朝が在世中、出陣にあたって着用の兜の内にしこんで念持の守仏としていたと伝えられる、鋳鉄の地蔵様(高さ二十糎)が安置されていた。今は胎内仏のこの地蔵は取り出して本堂の方に記られている。

※この地蔵は大地蔵の胎内にあったことから腹帯地蔵ともいわれている。

◎故 吉 田 保 警 部 補 殉 難 之 地 の 碑

      昭和二十八年(一九五三)四月  黒山 高磨 他

 (碑 文)

故吉田警部補は昭和二十六年(一九五一)四月二日正午頃、銃を擬し立向う拳銃魔原田国雄に対し、単身これを逮捕せんと右手に手縄を振り上げ格闘中不幸兇弾にたをる。依ってその功績を記念し町内有志の発起により之を建つ。

※吉田保警部補の殉職

金台寺墓地下の野菜畑の番小屋に、怪しい者がひそんでいるという町民の知らせに、芦屋署では直ちに三人の警察官を現場に急行させたが、怪しい人影は見当たらなかったから二人の警察官は帰署し、吉田巡査だけが附近に残っていた。正午ころ、吉田巡査は金台寺墓地に挙動不審の者を発見した。捕えようとしたら拳銃をつきつけて抵抗するので同巡査はこれを追い格闘になったが、同墓地内で相手の兇弾にたおれた。犯人は当時拳銃魔と騒がれた原田国雄である。 (芦屋町誌)

◎吉 田 千 鶴 之 墓 − 文化十三年(一八一六)八月

 (墓誌銘訳文)

千鶴(ちづる)通称は順平、江州彦根の人なり、丹青を善くす。少にして皇都に遊び、吉田氏の家を嗣ぐ。故ありて遠く書に遊び、芦屋に家すること二十余年なり。性隠を好む。然も美名いよいよ顕れ、画力頗る神奇なり。時に文化十三両手(一八一六)八月六日没す。年四十九歳。今意、天保己亥(一八三九)井原臥山君、首として議して諸士に謀り、力を載せて碑を芦屋金台寺下に建つ。

※吉田千鶴は花鳥・人物・虫魚等を画くのに長じておったが、就中、人物に至っては師の若駒を凌ぐ技りょうをもっておった。二十数年間芦屋に居住していた為、その間千鶴の教えを受けた人も数多くおった。宗像芦屋(ろおく)・二村洞山・宗像雲闍・中西耕石・守田洞山・波多野春鎮・倉野煌園等々大家が次々に輩出した。茶道もまた千鶴の後を受けて、明治・大正時代までは非常に盛んであった。千鶴は芦屋文化の恩人で、門燈龍の創始者でもある。現在も当地で八朔賀の配りものに添える二匹馬の刷り画があるが、当初の元本は千鶴の作であるといわれている。

            (芦屋町誌)         次

◎麻 生 氏 の 墓 群(と云い伝えられている)−

※金 台 寺 時 宗 過 去 帳 −

時宗遊行派である金台寺には永禄二年(一五五九)九月二十六日、麻生次郎が切腹し、母・乳母・妹などが殉死、自害また家来も共に打死にしたと云う、過去帳が残っていて次のように書きしるしてある。

 次 郎 殿

 前麻生殿  重阿弥陀仏 永禄二年九月二十六日

            御ハラメサル(御腹召さる)

 同御ウバ  音一房 永禄二年九月二十六日

 同次郎殿母 佳一房 永禄二年九月二十六日

              チカヰ(自害)

 同イモト(妹) 聞一房 同   同 二十六日

 入江助三郎  昭阿弥陀仏 永禄二年九月二十六日

            次郎殿伴シ打死

 金生殿母   土一房 永禄二年九月二十八日

 同宗麟禅定        永禄二年□口

 前麻生殿華琳源英居士   天文十二年七月□□□

※麻生次郎の事蹟は不明であるが、弘治三年(一五五七)から永禄二年(一五五九)には、毛利元就が大内氏を攻め滅ぼしている。大内氏の被官(家来)であった麻生興益の立場は逆転しているので、麻生次郎が初腹したと記してあるこの過去帳はこれに関連があるのではないだろうか。

※麻 生 次 郎 三 百 回 忌 −

安政七年(万延元年、一八六〇)は麻生次郎が攻められて切腹し、いっしょに母・妹・乳母・家臣入江助三郎・金生殿母なども死んでから三百年目にあたる、この過去帳が残されている金台寺で、安政七年二月二十四日から三月一日まで、麻生次郎殿三百回忌法要が盛大に執行された。

麻生次郎の慣死を悼んで血縁者・家臣・壇徒・金台寺住職などが集まり供養したものである。二月二十四日から三月一日まで別時念仏法会が勤まり、住職至阿上人はか光明寺住職など近隣の僧侶四人がこれに当った。法要中芦屋・山鹿在住の者六人によって、昼夜二回音楽の納供も行なわれている。参詣者も多くこれらの人々へは毎日二度にきりめし・にしめの接待がなされた。

三月一日は九ッ時(十一時〜十三時)から焼香が行なわれた。

この名元帳には麻生の旧臣林与三左衛門尉の末孫林清三郎打死にした入江助三郎の末孫入江圓助らの名が見え、本城村からも林勘助らが来ている。在町惣旦那中・門前百姓中など五〇人ちかくの者が焼香を行なった。また次郎殿など六柱の御霊に大塔婆五本、尊碑一本もあげられた。末刻 (十三時〜十五時)から御茶がふるまわれ、夕方には旦那中・門前百姓中・世話人中五〇人余りに茶漬ふるまいがなされた。翌二日には山鹿浜中勘右衛門・芦屋下河辺文十の門弟十一人によって生花奉納があり、三百回忌の法要は終っている。この間、越野守任を中心として追悼歌会が催され、麻生与右衛門尉朝尊・麻生孫九郎朝益・林清三郎など麻生や旧臣の末孫、芦屋・山鹿在住の者三〇余人によって歌が詠まれた。この時の歌は「蓬華(よもぎぐさ)」としてまとめられ金台寺に奉納されている。(芦屋町誌)

※蓬 章 1

万延元年(一八六〇)二月に営なまれた麻生次郎殿三百遠年回忌にあたり、奉納された和歌・漢詩・俳句の一巻であって、越野守任の序文に初まり、和歌三十首・長歌一首・反歌一首と俳句四句と続き、藤原保親の奥書と和歌一首で一巻となしているものである。(崗二号 藤本春秋子)

◎鳥 居 (熊野大権現)−天保七年(一八三六) 九月

                        門前 甚助

 祭神 熊野三神

(裏の墓地に)

◎吉 田 磯 吉 の 父 母 の 墓 −

      大正二年(一九一三)十月 吉田 磯吉建之

※吉田磯吉翁のこと

遠賀川といえば「川筋男」という言葉が返ってくる程、その異名は全国的なものであったが、それを代表する人物に吉田磯吉がおる。「西日本一の大親分」とか「任侠代議士」などといわれた人であり、昭和十一年一月十七日七十九歳で亡くなったが、その勇侠ぶりば代議士になってからも発揮された。

生れは芦屋町の農家で幼名磯吉のち徳右衛門と改む。家が貧困であったため、幼少から魚や野菜の行商をしていた。十六歳で川船船頭になり二十五〜六歳まで船頭をしていたが、腕力と胆力とでしだいに遊侠の徒の間で重きをなし、若松に移ってから明治三十三年二月、江崎満吉・江木弥作らとの決闘に勝って名を上げた。

発展途上にある若松港の会社・商店などの防営のため起って戦ったわけで、決闘のとき吉田方は一〇名内外相手方は七〇余名だったという。

世間的に知られるようになったのは、若松に出てからで終世この若松が本拠地になった。荒っぽい石炭港の若松で会社の用心棒役で売り出し、大正四年四十九歳の時に代議士(衆議院議員)に当選し、六十六歳で勇退するまで、国会で任侠政治家と目され活動した。その間数々のエピソードも多かった。

大正十年日本郵船事件などはその代表的なもので、日本郵船を政友会が乗っ取ろうと総会へ壮士を送りこんだ時、山県有朋の頼みで吉田一家が乗りこみ、その野望をつぶした事件である。さまざまなトラブル解決の手腕は実業界でも大いに発揮され、石炭・運輸・魚市場などの経営でも成功している。

 (芦屋町誌・芦屋ガイドブック)

元若松市長であった吉田敬太郎氏は彼の長男にあたる。

◎刀 根 午 吉 之 碑 − 昭和十五年(一九四〇)三月

     世 話 人   畠田  徳蔵  小田  吉松

     山田 梅三郎  三浦 初太郎  福田  末吉

     徳田 吉之助  塩田 久次郎  橋本 慶三郎

     井上 安太郎  井上 吉太郎  塩田  平次

     中西 儀七郎  堀江  春雄

 刀根午吉は芦屋砂舟同業組合の組長であった。当時ひらた船は 約一六〇、船頭は一三〇名ほどだった。

◎三 浦 忠 平 君 之 碑 − 昭和六年(一九三一)八月

           福岡県折尾土木管区事務所職員一同

(碑 文)

君資性温厚篤實夙二志ヲ立テ東都二学ブ。大正十二年折尾土木管区二奉職格勤ヲ以テ アリ。昭和六年二月福岡県社会事業トシテ北九州失業救済八幡市内国道路面改良工事行ハレ技躍セラレテ第三班長トナルヤ斃レテ後止ムノ悦ヲ以テ夙夜奮闘其ノ功績顕著ナリシニ不幸中途ニシテ病魔ノ襲フ所トナリシモ尚身命ヲ顧ミズ亀勉力行終二七月一日職ニ殉ズ齢僅二三十。誠二可惜寔二同志相謀り碑ヲ立テソノ梗概ヲ録シテ永久二英霊ヲ慰ム。