芦屋御台場の跡−(旧幸町)常陸丸の碑裏側

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芦屋御台場の跡−(旧幸町)常陸丸の碑裏側

52 芦 屋 御 台 場 の 跡−(旧幸町)常陸丸の碑裏側

望玄荘団地北側の裏から芦屋町立病院にかけて小高い丘があった。この丘が芦屋御台場の跡で明治の末までは御台場の石垣が残っていた。(刀根房吉氏談、八十一歳)

※福岡藩では洞海湾沿岸の若松・小石・藤ノ木・二島・本城・黒崎・枝光また戸畑・中原海岸に藩士を配置して、外艦の襲来を警戒させた。遠賀郡には士族隊長として家老野村益雄が本城に駐在し、若松地方は吉田主馬が主将として若松に駐在した。若松・芦屋・柏原には御台場が構築された。台場づくりには一般農民が動員された。博多湾周辺の須崎・波奈・残ノ島・志賀島・西戸崎にも台場がつくられた。国内一般から燭台・金だらい・鏡その他銅器などが献納され、一〇〇余門の大砲が鋳造されたという。「福岡年代記」によると「文久三年(一八六二)六月朔日若松浦中島砲台築立七月成就」とあるから芦屋・柏原の台場も短期間に造られたものと思われる。芦屋・柏原・若松地方では農民が徴用され、農兵として交番で日夜台場に詰め、大砲の射ち方を練習させられた。町人で大砲打方に召されたものもあった。吉田主馬の支配下にあって郷筒方(大砲方)を勤めていた者たちは、足軽にとり立てられ、年々米三俵づつ支給されていた。各台場は福岡藩の防備施設として明治初年まで残されていた。

※芦屋町幸町には構口という地名があったといわれているが、それは海岸の台場へ通じる道路の角に詰所があり、そこに藩士その他当直者が詰めていたからだろう。(芦屋町認)