海雲寺

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宝篋印塔 (県指定有形民俗文化財)


説 明 板(内容は右記)


本堂は見当たらない。
今はこの地は隣の安養寺が管理している模様である。


宝塔横に 弘法大師立像 − 大正十年二九二一)三月
後ろに見えているのが仏像群


高祖弘法大師坐像 − 昭和八年九月


地蔵堂
本尊 地蔵観世吉菩薩


遠賀川西新西国第三十二番札所
東側に仏像群が並んでいた

34 海 雲 寺−(旧金屋町)中ノ浜五−一六

江岳山西福院と号す。天台宗叡山派博多妙吉寺末なり。万治二年(一六五九)秀山といえる僧再興せり。本尊は毘沙門天(立像三尺) いつの頃にや寺下の井戸の中より出現せりと云う。因って今も此の井戸を毘沙門井戸と云う。脇壇に不動の木像(立像二尺)あり。仏師春日の作と云う。

この寺明治十三年(一八八〇)県立芦屋中学校を建設するにあたり境内の大半を割典せしが、明治三十五年芦屋高等小学校を改築せんとするにあたり、敷地の拡張を要するより寺地の残部を同校に悉く売却し、其の代りに隣地の芦屋町公会堂を芦屋町より無償にて譲り受けて移転したり。(遠賀郡誌)

◎宝 篋 印 塔 (県指定有形民俗文化財) −

 (説 明 板)         享和三年(一八〇三)春

 この宝篋印塔は高さ約六メートル強、基壇三段仕立、赤味をおぴた花崗岩を使用している。塔身に鋼製の経簡及び鋼板文を納め、保存状況は良好である。経筒に「法篋印陀羅尼を書写し奉る。紺帋金泥八万四千巻の内、遍照金剛豪潮、享和三癸亥春吉辰」とあり、鋼板銘には「寛政戊午火災の亡魂及び依るべなき無情の法界万霊のために・・・」と、この宝篋印塔を建立した主旨を刻んである。発願者豪潮は肥後の人、天台宗の高僧で諸国八万八千塔造立を発願、諸国に建立を実現した人物である。この宝篋印塔は大きく作柄も極めて優雅で福岡県下では最もよく保存された代表的なものである。銘文によると寛政五年(一七九三)の火災による焼亡者等供養のために、地元の人々の協力を得て享和三年(一八〇三)に造立したと云う。造立年次・発願事由・造立発願者共に明らかな貴重な資料である。銘は豪潮律師の筆である。

※豪潮律師は寛延二年(一七四九)肥後国(熊本県)玉名郡の真宗本派安養寺塔頭泉光寺第二世貫通和尚の二男に生まれた。

はじめ同郡高瀬町繁根木山寿福寺の豪旭阿闇梨の門に入り快潮と称したが、のち比叡山で修学し十九歳のとき権律師に補任された。翌年法眼和尚の位に補任され、比叡山で秘法をさずかり、名を豪潮と改め、大阿闇梨の位に上った。二十三歳で伝灯大法師位豪潮と称し、天台宗専寺に補任されている。二十八歳のとき繁根本山寿福寺の住職になった。高徳は遠近に聞こえ、帰依するものが多かった。諸所を巡り歩き、一時太宰府戒壇院に足をとめていたこともあったという。

※豪潮が全国に宝篋印塔を八万四千基建てるという大誓願をおこし、信徒に勧進して諸方にこれの実現方を推進し、それに着手したのば享和二年(一八〇二)五十四歳のときであるから、芦屋の法篋印塔は初期に属するものである。

天保六年(一八三五)名古屋の時雨庵にて八十七歳で没するまで、全国各地に石・銅・木・鉄などで造った大小約五千基以上の宝篋印塔を建立したと日記に書かれている。

豪潮は「絵の仙崖、書の豪潮」と称せられた程の能筆家でもあった。

豪潮は芦屋に来たとき、海雲寺に宿したものと思われる。

この法篋印塔はもと旧芦屋小学校の敷地内にあったのだが、明治三十四年芦屋高等小学校の改築が決まったとき、海雲寺と共に現在地に移されたのである。(芦屋町誌)

◎本 堂 −

 遠賀 川西四国第八十六番札所

 本尊 毘沙門天

    十一面観世音(実際は省略されて八面である)

 ※曼 陀 羅 − 狩野元信の作という。

 ※仁 王 像 彫 刻 額 一 対 −

 一枚の厚い板に彫り込まれた仁王像一対で、仏師雲慶の作といわれ頗る古雅なり。

◎高 祖 弘 法 大 師 坐 像 − 昭和八年九月

 明治三十六年川西四国創立 三十周年記念

◎弘 法 大 師 立 像 − 大正十年二九二一)三月

◎地 蔵 堂 −

 遠賀 川西新西国第三十二番札所

 本尊 地蔵観世吉菩薩

◎仏 像 群 −

 北東側の土手に三段にわたり、約百体の仏像がある。