旧芦屋橋跡

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旧芦屋橋跡 − 遠賀信用金庫芦屋支店の裏


前方は山鹿城址

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32 旧芦屋橋跡 − 遠賀信用金庫芦屋支店の裏

◎蘆屋橋の欄干本柱石 − 

           大正六年(一九一七)四月

これは旧芦屋橋があったときの其まゝのものである。芦屋・山鹿間に橋を架けることば早くからの懸案であった。大正五年五月一日地鎮祭を施行して工事に着手した。全長二七〇メートル幅員約四メートルの芦屋橋(コンクリート製)が竣工したのは、一年後の大正六年四月十日である。工事費総額は四万四千百三十七円二十一銭であった。最初の計画どおり有料橋とすることにし渡橋料を次のように定めた。

人 一人            一銭

牛馬     口付人夫共  二銭

荷積年馬車 口付人夫共  二銭

二人持荷  担天二人共  二銭

人力車    車夫英     二銭

自転車             一銭

馬車               五銭

自動車             五銭

大正八年度より芦屋橋は県有となり、渡橋料の徴収は停止された。その後芦屋橋は台風や洪水のため地盤が沈下し、年々橋げたが下がってゆき、昭和十年六月の大洪水によって中央部分が沈下屈折して、通行に支障をきたす状態になったので損傷の箇所に四寸角柱を並べたり、厚い板を敷いて車の運行や人の歩行に支障のないように処置されていたが、県によって新たに架橋が計画され、旧橋から約一七五メートルの下流に昭和十五年現在の芦屋橋が架橋された。

※明治初年から明治四十年にいたるまで、芦屋山鹿間の渡船は民間人によって経営されていた。

渡船料(明治十一年)は次のようであった。

 人  一人        三厘

牛馬一匹 但口取人夫共 七厘

荷車輌  但車夫一人共 七厘

両掛一荷  但人足共  五厘

人力車輌 但車夫一人共 五厘

駕籠長持 但人足二人其 八厘

渡船は四艘いて、時によっては二艘、一艘で客や貨物などを運んだが、天候によっては一日十回ぐらいしか通わぬこともあり、また欠航することもあった。梅雨期には出水で何日間も停止した。山鹿方面から芦屋に勤めをもつ者、また芦屋高等小学校へ通っている者も多かったから、朝の渡船時は特に混雑した。

芦屋町では明治四十年三月渡船を買収して町営にし、四月一日から民間人を指名受負人として渡船業務にたづさわらせ、町が新造船をつくるまで従来の船四艘を使用することにした。

 渡 船 料 明治四十年四月−同年六月改正

人  一人      六厘 一銭

人力車輌  車天一人共 一銭  一銭五厘

牛馬一頭  口付一人共 一銭一厘 二銭

負荷物一荷 担天共 一銭三厘一銭五厘

二人持荷物一棹 担天二人共 一銭六厘 二銭五厘

荷積年馬車一輌 両口付一人英 二銭五厘 三銭五厘

自転車一輌  乗人共   一銭  一銭

年齢五才以上十三才以下は半額、五才未満は無賃、一日中往復する者は賃銀は一回のみ徴収、軍人・警察官・郵便集配人などは無料だった。(芦屋町認)