長野政八翁の立像

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長野政八翁の立像

31長野政八翁の立像 − 中ノ浜九−二

昭和二十九年(一九五三)三月明治二十六年芦屋に生る。久留米商業学校卒業後、家業の魚問屋を継ぎ、家業のかたわら芦屋町発展のために努力した。
昭和十六年六月芦屋町名誉町長にえらばれて就任、二十一年十一月退任するまでの五ケ年余、戦前戦後の困難な時期を町のために尽力した。太田山(現在の町民会館・中央公園二帯は小高い砂丘であった)の町有確保、戦時中の町民の指導など業績は多いが、特に戦争末期、焼夷弾の被害を少なくするため、天井板をはがせという軍命令が出、北九州方面では実行にうつされたが、長野町長は自己の信念と判断とによって芦屋町では天井板を落とさせなかった。
 戦局が悪化し空襲もまたはげしくなるなかで、動揺しがちな町民の心の指導にもっとも心をもちいた。米軍進駐後は米軍との円滑な政治工作に任じた。退任後、福岡県魚市場株式会社社長に就任し、福岡の財界で重きをなしたが、多忙中芦屋町に帰っては後進の指導を怠らなかった。特に敬老の念が深く、自営の劇場・映画館で毎年個人的に敬老会をもよほし、老人達をなぐさめた芦屋町が競艇場開設を企画し資金難に直面した際は、在福郷土人に呼びかけて資金獲得に協力を惜しまなかった。
 没したのは昭和二十八年五月三十一日である。享年六十一歳。昭和二十九年翁の功績をしのびつゝこの碑を建つ。

(芦屋町認)