禅寿寺

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禅寿寺 −(旧船頭町) 船頭町八−一一
惣門 −昭和四年三月の大火災の時これだけは残った。


五重層塔 −天保二年(一八三一)四月

 明治政府の「神仏判然令」で千光院内にあった五重層塔(高さ約七メートル)は、船頭町の若者達によって一夜のうちに現在地に移設されたといわれる。
 しかしながら、昭和4年に大火に遭い岡湊神社、禅寿寺も焼失しこの五重層塔も大火の被害にあった為、もうごりやくが無いのではと云うことで岡湊神社に移そうという考えも一部に
あるそうだ。
 今ではこの五重層塔は禅寿寺のシンボルであり何時までも禅寿寺に建っていてほしいものである。



南無大師遍照金剛 − 明治三十三年(一九〇〇)八月


宝篋印塔 −文政元年(一八一八)七月


石蘭の句碑 −文化三年(一八〇六)二月


芭蕉翁菖蒲塚 −寛政五歳(一七九三)

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25 禅寿寺 −(旧船頭町) 船頭町八−一一

 覺海山と号す。禅宗臨済派(博多)崇福寺末なり。開山大覺禅師道隆(どうりゅう)は元国より帰化の僧にて文永四年(一二六七)この寺を建立すと云う。本尊釈迦如来(坐像高さ三尺)は運慶の作にて古仏なり。(遠賀郡誌)

 石脇壇には達磨大師の坐像あり。

※火除け達磨の古画像

 禅寿寺に「火除達磨」という古い画像がある。菩薩達磨圓黌大師の画像であるが、寛保年間当寺が火災にかゝったとき、数日後焼跡から発見されたこの画像は、少しの損傷も受けていなかったという。その後幾度かの大火にも焼けなかった。

 近くは昭和四年三月船頭町全域の大火のとき、岡湊神社も禅寿寺も焼失したが、圓覺大師の影像といわれるこの画像だけは無事であり、また昭和二十八年十一月四日禅寿寺わきの商店三戸四世帯が全焼したとき、すぐそばだったのに禅寿寺には一片の飛び火もなかったという。この画像は今も保存されている。(芦屋町誌)

※昭和四年三月の芦屋町大火災にて全焼した禅寿寺は吉田三郎氏によって再建された。惣門だけは焼けずに昔時をしのばしている。

 吉田三郎氏は明治三十一年芦屋町船頭町に生る。長じて上京し大隅桂厳に師事した。大正四年には東京講道館に入り柔道を修業した。昭和二年に芦屋大統社を創立す。後に大統社工業塾を船頭町に創立す。昭和四十四年二月七十二才にて没す。

 (芦屋町誌)

◎御国六十二番札所 −

          明治三十三年(一九〇〇)八月

◎惣門 −昭和四年三月の大火災の時これだけは残った。

◎鐘楼跡 −石垣積みの土合のみ。(現在は無い)

◎石仏 −以前地蔵堂に祭ってあったお地蔵様である。

◎種否菴よう哲居士の碑 -

 禅寿寺に縁故の深い人のものと思うが明らかならず。

◎本堂 −

◎五重層塔 −天保二年(一八三一)四月

 塔身の四面に多くの梵字が刻まれている。

 光明真言寶塔再建

 当山四十世権大僧都法印智圓誌

  (基礎石に寄進者の名が刻まれているのだが東側の石の表面が剥落、損傷がはげしく判読がむつかしいので崗五号田中八郎氏の稿より)

恵比須屋 茂助 紀伊国屋藤右衛門  高浜屋  畝助

浦松屋 善九郎  掛屋  喜代松  掛屋  三郎平

関屋  清次郎  田中屋 傅三郎  塩屋  傅四郎

若松屋 善九郎  穂坂  元享  米屋  傅次郎

俵屋  茂七  吉野屋  七六  吉野屋  七蔵

恵比須屋徳兵衛 萬屋  武平 植木屋  重蔵

植木屋  善助  塩屋 与右衛門  塩屋  久兵衛

 五重層塔は貴重な塔という意味で、通称「宝塔」と呼ぶ場合があるが、構造上の宝塔は別の型である。

 五重層塔は墓の一種で形そのものは現在でも各地に数多く残っているが、方形の五つの層に二十八字もの梵字が刻み込まれているものは北九州地区にも見当らないという。

 明治政府の「神仏判然令」で千光院内にあった五重層塔(高さ約七メートル)は、船頭町の若者達によって一夜のうちに現在地に移設されたといわれる。明治五年のことである。

 この塔は弘法大師千年忌に地元の豪商達により建立されたものである。芦屋にある寺院の史跡類は明治初期にほとんど壊されている。この塔がこれまで生き残っているのが不思議なくらいだ。この形式の塔は県内にも残っていないようだ。(崗五号田中八郎)

◎大銀杏の木 −

◎水盤 −

◎地蔵堂跡 −

 地蔵堂に祭ってあったお地蔵様は現在庫裏(くり)の入口にある。

◎石段 −大正五年(一九一六)四月 妹尾 秀二

◎門柱 −明治四十一年(一九〇八)八月

  船頭町大師講社中 泉原 武右ヱ門  中西  勘助

  柴田   治七  妹尾   秀二

◎宝篋印塔 −文政元年(一八一八)七月

  経日  大乗妙典一字一石

  和田 吉右衛門  村田   専吉  中西  善蔵

  和田   武平  太田 保右衛門  和田  吉平

◎大師堂(現在は納骨堂)と八十八体の仏像

 明治五年神仏混淆を厳禁せられし際、岡湊神社々僧の坊千光院にありしを、禅寿寺境内に移設したと「遠賀郡誌」にあるが、大師堂は老朽破損したのでその跡に納骨堂が建立された。八十八体の仏像は納骨堂の周囲にお祭りしてある。

遠賀 川西四国第八十八番札所

本尊 薬師如来

 (納骨堂の裏に廻る)

◎三界万霊一石合銘 −太田 喜兵衛潰貞

◎南無大師遍照金剛 −

           明治三十三年(一九〇〇)八月

  光明真言十万遍  四国須拝話社中

◎弘法大師坐像 −文政十一年(一八二八)正月

◎石蘭の句碑 −文化三年(一八〇六)二月

  人すまぬ 此山井や 秋乃日  石蘭

 この句碑は石蘭の没した翌年に、妻である知巣が勧進して建立したものである。

◎芭蕉翁菖蒲塚 −寛政五歳(一七九三)

   郭公(ほととぎす)晴や五尺の あやめ草

    槎菴 宇麦 麗亭 保能香 発起

    嗣志 吉永 松ト 太田 希王 建之

◎大乗妙興一字一石 −

  宝暦四年(一七五四)九月 太田 序六 同人 妻

◎石鉄山の碑 −

◎弘法大師立像 −南無大師遍照金剛

 (本堂裏)

◎鳥居 −大正八年(一九一九)三月

 正一位 大國廣神社 上野瓶城 手島助吉

     森重神社 八尋義輔 安武源七

◎石祠−明治三十五年(一九〇二)正月 高崎 儀之助

◎中岳允首座塔 −享□元年

横に倒れ大部分は士に埋まっている。何か古事来歴がありそうだが不明。