地 蔵 堂 (新築)

 前に戻る

路地の民家に囲まれるようにひっそりとあった。
しかし存在感が感じられるのは故人たちの思いなのであろう。



近くに
懐かしい看板があった。

 前に戻る

 14 地蔵堂−(旧東町)  

 高浜町11−12(鶴松墓苑より徒歩14分)

 里人は新築のお地蔵様という。昔時新築には数軒の遊郭があった。郭(くるわ)の女達が嬉しい時また悲しい時にお願いごとをし、信仰していたお地蔵様である。以前は新川(西川)の方に向いていて、前に広場もあり、お祭りのときには出店も数多く出て賑あった。

◎堂字 −

遠賀 川西四国奥の院

本尊 地蔵菩薩

芦屋歌舞伎関係の墓(寛延□□正月廿五日妙栄□□□貞兵衛室)など四、五基あった。

※繁昌した新築(東町遊郭)

 明治二十四年に遊郭取締県令が施行された。当時の遠賀郡に遊郭の許されていたのは、若松の連歌町と芦屋の新築(東町)の二ヶ所しかなかった。それがためこゝは特別の歓楽境で殷賑 (いんしん)を極めていた。その証拠には請願巡査の駐在所が設けられていた。遊廓(貸座敷)は三藤楼・梅月楼・蛭子楼・旭楼(ひがしや)と軒をならべ、一寸離れて自由亭後に雁(かりがね)楼の五軒があってそれぞれ多数の芸妓や娼妓をかゝえ、それを一杯飲屋などがとりまいていた。遊廓設置前には町内各所で遊廓類似の営業が行われていたが、風紀取締りのため一区画に制限されたものであり、当時金屋町(かなやまち) には遊鶴亭・三鼎楼其の他の料亭があり又芸妓券番もあった。石炭関係の業者や川船や胴船の船頭さん相手の石炭景気で、花柳界は盛んなものであったことが想像される。(崗二号榎枝卯七)

しかし若松に鉄道が敷かれ芦屋から若松へと石炭輸送が移行していったため明治25年頃には梅月楼だけがこの界隈には営業していなかった。

※この新築の遊廓街は新築のお地蔵様の北側の通りである。

 終戦直後それらしい家が残っていたのだが今は無い。