大城のいわれ

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大 城 々 祉

          刀根為次郎著の芦屋の浜より(大正13年発行)

本町の東、三町除大塚小塚と云ふ所に城址と言ふ石垣の形態が猶(なお)残って居る、是は彼の※蒲冠者源範頼、平家を攻むるとて西国に下りし時暫く此に止まり居たりしと。

とある。昔には城があった事から大城と呼ばれるようになったんのではないだろうか。しかし戦国時代以前の中世の城は山城といわれ、数十から数百m位の山の上に作られた、防御的機能に重点を置いたものであり、天守閣のあるお城は15世紀になってからである。

※蒲冠者源範頼

源義朝の六男。源頼朝の異母弟。源義経の異母兄。 遠江国蒲御厨で生まれ育ったため蒲冠者かばのかじゃ、蒲殿とも呼ばれる。 藤原範季に養育されたことから「範頼」と名乗る。

 元歴2年(西暦1185)2月1日、葦屋浦において九州最大の平家方・太宰少弐(原田)種直らと合戦し、大打撃を与えています。

旧妙見神社

位置の考察

妙見神社は昭和52年芦屋基地の影響で移転を余儀なくされた。旧妙見神社の位置を探ってみた。

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芦屋の墓誌と碑誌 藤本春秋子著より

◎妙見神社由緒碑

  祭 神・伊佐奈岐神  楠 正成公

   所在地 芦屋町大字芦屋字虚空蔵

   由 緒 勧 請 年 月 不 詳

 往古ヨリ大字芦屋一二八二番地ノ老松繁茂セル聖地ニ大城区ノ守護神トシテ奉斎シ祭神楠正成公ハ字南ケ浦ニ多聞神社ト称シテ奉斎セルヲ明治四十四年こ合祀ス 日支事変中広域ノ三里松原ヲ伐採シ飛行場が建設サレシガ終戦後ハ米軍コレヲ使用シ引続キ航空自衛隊基地トシテ今日ニ至ル 然ルニ境内ハ滑走路ニ近接シ爆音烈シク危険が憂慮サレシヲ以テ防衛庁ニ申請シ大城区崇敬者ト共ニ集団移転ノ止ムナキニ至レリ 依ツテコノ地ヲ選ビ新殿ヲ造営シ昭和五十二年五月十三日御遷座ヲ斎行ス

  妙見神社 宮司 林田守治・禰宜 林田守邦

   責任役員 安高松次郎 安高倉吉 安高一政

         氏子一司   書者 安高千代松

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 この文に大字芦屋1282番地とありますが今の番地でこの位置は粟屋の貴船神社の近くになってしまうのでどうも今の番地が違うようだ。大城の取材のおり、住人の方にお聞きした所、芦屋競艇場より北西の直線距離で300mで警察犬訓練所の東側にあったようだ。その地を訪ねると確かにそれらしき遺構が残っていた。

大塚古墳の

位置を探る

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 芦屋町郷土史研究会機関紙 「崗」 昭和58年度版より

     「大塚古墳」の 旧位置を測る

             鈴木長敏 向井秀雄

 芦屋町大城の東北に当る丘陵の一角に、むかし「大塚」と呼ばれた古墳がありました。五〜六世紀(古墳時代後期)のものと見られる円墳で、墳丘は南北約三十六メートル、東西約二十二メートル、高さ約六メートルであったと記録されています。

 この塚は昭和十八年、陸軍飛行場滑走路の建設工事のために、取りくずされましたが、その横穴式石室部分の石組みは、現在町役場南側の丘に移築復元、町の文化財(考古資料)に指定されています。また石室から出土した装身具や武具などは、町歴史民俗資料館に収蔵展示されています。

撤去工事からすでに四十年

 この「大塚」がもとあったのは、いま航空自衛隊基地の主滑走路南のはずれ、平坦な芝生になっているあたりの、どこかであると、語りつがれてはおりましたが、、その正確な位置については、町役場にも自衛隊にも、記録・資料は全く残っておりません。

 今年になって、自衛隊と芦屋町とのあいだで、同じ飛行場工事のために消え去った「お手水池」を記念する石碑を建てるのとあわせて、この「大塚」の跡にも小型の標識を設けようという計画が具体化しました。しかし古墳撤去以来四十年、かつてこの塚に親近した思出をもつ人々は、大部分還暦を越えました。まず地元の古老の記憶にもとづく証言、そのほか出来る限りの資料を再収集して、この塚の位置を現在の地図上で表示することが必要になりました。

 以下は、そういう要請のもとで、町文化財保存委員会が判断を下す際の参考資料として、鈴木長敏・向井秀雄両名が行った共同作業のメモであります。

五人の安高さんに話を聞く

 この大塚に一番近かった集落は大城であります。とくに低地をへだてて向か事合う西南側の丘(字南ケ浦・栗原)の斜面からは、大塚そのものが直接望見できました。

 そこでまず、古くから大城にお住いだった安高松次郎さんはじめ同姓の四人の方々に、鈴木が各個面接し、現在の地形、地物を指さしながら、どの方向に、どのくらいの距離のところに大塚が見えていたか、というそれぞれのご記憶を確かめ、四つのご意見をそのまま地図上に書きとめました。(第一図)

 

    第 一 図

「むかし大塚はどのへんに見えていましたか可 という問いに対する四人の方々の答え

 

 また安高松次郎さん、同一政さんと、さらに郷土史研究全長の野間栄さんにも、当時の最も信頼できる測量図である二万五千分の一地形図の図上で、大塚一帯の小径や谷間、そのほか目じるしとなった崖や叢林などを思い出しながら、大塚へたどりつくために歩いた道すじを、地図の上で指摘していただきました。

等高線の形からも割り出す

 次に地形図の上で大塚の位置を推定する作業は向井が担当しました。旧陸軍の陸地測量部が作製した二万五千分の一「折尾」図幅(昭和十三年測図) には飛行場工事以前の三里松原、お手水池から、大域、粟屋へかけての丘陵の起伏が、二・五メートルきざみの等高線で精密に表現されています。したがって、高さ六メートルの独立墳丘であったという大塚古墳は、少くとも二重の小さい円で描かれていなければなりません。基底部が南北約三十六メートルあったとすれば、その二万五千分の一は、おおよそ径「五ミリメートルほどの大ききになるはずです。

 そう考えれば図上で「大塚」の候補になりうる地形はきわめて限られて来ます。第一候補としてA地点。ほかに高さや形の点で、適格性はやや劣りますがB地区の三つの小隆起を、?補欠?として挙げることにしました。

 二つの地図を重ねて見たら

 この地形図に第一図を重ねて見たのが第二図であります。四つのご意見のうち二つがほぼA地点に一致します。あとの二つはわずかに左へ、つまりB地区とは反対の方向へ寄っています。しかしそのあたりは深い谷になっていて、近くには、まざらわしい小隆起などありません。したがって四つのご意見は、記憶の誤差の範囲内で、すべてA地点を指しているのだと考えていいと思います。

 さらに野間さんは「浜口から大城に通じる小径づたいの途中から大塚へ向って斜面を登った記憶をたどって見ると、歩いた距離感などからいっても、B地区ではない。A地点の方向だったと思う」と、この判断を支持されています。

 これに対して安高松次郎さんは「大城から大塚へ、道のない山の斜面を苦労して歩いて行った体験からいうと、どうもA地点では近すぎる。もっと遠かったように思える。あるいはB地区かもしれない」と感想をもらされました。

 しかし現在の地物と視覚的記憶をもとに、松次郎さんをふくめて四人の方が、はじめに指し示されたのがすべて、現在の飛行場下バス停の背面よりも、ずっと左寄りの方向であったこと、つまり右寄りに見えるはずのB地区とは反対の方向ばかりであったことは重視せねばなりません。また地図をもとに考えて見ますと、大城に隣接していまも「塚の本」という字名があり、これは「大塚の下」という意味だと思われますが、A地点が大塚であれば、まさにその「もと」に当り、地形的にはぴたり適合します。(第三図)しかしB地区だとすると方角がくいちがい、字名は宙に浮いてしまうことになります。

 以上を総合して私たちは九十九パーセント、大塚はA地点であると推定いたします。しかしB地区である可能性をはっきり否定してしまえるだけの資料はまだ足りない、と申しそえます。

 

 塚の旧位置は碑の上空

 さてこのA地点およびB地区が現在の滑走路や隊内施設のどこに当たるのか。第二図を芦屋町役場発行の一万分の一図とを、同梯尺にして重ねて見たのが第三図です。

 去る六月の末日「大塚古墳跡」の五文字をしるした石碑が、この推定A地点付近に設置されました。縦、横五十センチメートルの小型で、碑面は芝生の平面からあまり頭を出さないように、平らに近い形で埋められています。

 このA地点が整地される前の小隆起の標高は海抜三十五メートルでした。現在の滑走路周辺の芝生は標高三十メートルです。つまりもと大塚一帯は五メートルほど削り取られたのであって、古墳の旧位置を正確にいえば、この碑の上空だということになります。

B地区は地図で見られるように、主滑走路と重なります。碑は隊の業務の妨げにならないように、滑走路からは一定の距離を置かねばなりませんので、もしかりに私たちが、大塚はB地区にあったという結論を出していたとしても、碑は結局現地点あたりに設けることになったでしょう。)

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