下記に掲載するものは芦屋町郷土史研究会の冊子「崗」から
抜粋したもので野間栄氏が投稿されたものです。

粟屋の民俗

                  野 間   栄  

 この一文は昭和五十四年に福岡県が緊急民俗文化財分布調査を実施した際、県の依嘱をうけて農村部の芦屋町粟屋区を筆者が調査報告したものをもとに、一部を省略して記述した。調査は大正時代を中心に古い時代のことを対象に行ったものである。

  地区の概況

 粟屋の家々が散在する粟屋台地は高度二〇mから三〇mのところが広く、その上に五?から一五?位の小丘が分布し、起伏に富んだ地形を成している。台地の北側は陸軍芦屋飛行場が開設されるまでは三里松原に接し、殆んど砂地である。浅い谷間が一ヶ所あり、その最も低いところに古くから定住している本田、安高姓の両家が粟屋地区の草分けであろうといわれている。いつの頃から住居が構えられたものか、その時期などについては明らかでない。

 土地の性質と水利の不便から作物に適せず、畑作物の生産が盛んになったのは大正時代の末からだという。人口の動態は、明治三十九年の頃が総戸数二十四戸、人口百五十三人。大正時代になって三十六戸、百五十九人と殆んど動きはなく、調査時の昭和五十四年十月現在でも古くからの定住世帯は三十一戸で、人口は百四十八人である。これを職業別にみると、専業農家二十一戸、兼業農家四戸、自家営業は三戸である。この内本家が七戸で、その分家が十四戸、孫分家その他が十戸という構成になっている。

  田畑による生産の状況

 米や雑穀の生産は全戸が隣村の島門村に土地を求め、いわゆる「出百姓」によって行われてきたが、その田地は湿田であった一ので大正時代に地上げと客土によって乾田に改良された。乾田となってからは「田すき三回」といわれ、荒ずき、くれ返し、うね割りののち荒代(しろ)がき、中代がき、上しろがきののち田植となる、という順序であった。

 裏作物は小麦、裸麦、菜種であった。稲の干し方は「土干し」といって刈り取った稲を畔に積み重ね、乾いたものを自家に運んで脱穀し、ムシロ干しをした。また 「しんこう」といって、畔に刈り取った稲の穂先を中心に三方から積み重ねて、二、三回積みかえて乾燥したものを野こぎして楓とした。

 大正時代までは茶畠が各所に見られ、粟、そばなども作られていたが、その後は大根が作物の主力となった。千本漬(沢あん潰) 用として多量に作られた。また、製蝋(せいろう)のために黄櫨(はぜ)が植えられ、ろうそくを作ることを業としていた家があり、いまも「ろうそく屋」という家号でよばれている。畠作物としては甘藷、らっきょうなども作られ昭和初期まではその全面積は七町歩(六九五アール)程度であった。

   氏神の祭礼と宮座                 前に戻る

 粟屋の氏神は貴船神社である。区民は「貴船さま」とよんでいる。祭神は高霊神(タカオカミノカミ)闇霊神(クラオカミノカミ) の二神で、雨雪のことをつかさどる神さまである。祭田(斎田)が二段歩あり、境内地は百四十一坪(四二六平方?)である。祭典は毎年一月三日に新年祭、八月の末日に風止め祭、十月二十三日にお宮座が行われる。昭和の初めまでは旧暦によって行われた。

 祭典は神武天皇社の神官によって永く行われていたが、戦後は岡湊神社の神官によって執行されるようになった。区民は芦屋町の神社と村の氏神の二重氏子である。新年祭、風止め祭は組(隣組)の当番制で順番に、お宮座は四組によって交替で奉仕されてきた。

 風止め祭は二百十日の厄日を前に風除けの祈願をするお祭りで、お宮座は区民の親睦をもかねて催されるもので、区中の全戸主が参加する。お宮座の座元は組(隣組)とは関係なく、心易い近親者が当番組を作って奉仕する。三軒か七軒位が組となって毎年交替で行うが、この組がいつとはなしに四組となった。費用は区有の祭田から収穫した米の代金をもってこれに当てた。「貴船さまLで祭事を終ったあと、直会(なおらい)となる。年長者から順に座るのがならわしで、主婦たちが炊事方でご馳走をつくり、酒は飲み放題であった。その席で次年度の当番組との間で頭渡しの盃ごとが行われた。境内では大人組、子供組の相撲が催された。

 祭り行事として一時的ではあるが山笠が建てられた。明治三十年代と、大正時代末期のことである。芦屋の祇園祭に合わせて笹山(ささやま)笠を建て、三里松原の中の往還を芦屋の町の入口まで舁(か)くのだが、何しろ人数が少ないので、途中までは町の若い者たちが応援にきた。近頃まで山笠の舁き棒が残っていたという。

  区で奉仕する神仏

 貴船神社の神殿を背にして「馬の神さま」の石祠、大師堂、地蔵堂がある。馬の神さまは農馬に対する感謝からその守護神としてまつられたものといわれている。石祠に明治二十三年九月と刻まれている。祭日のきまりはないが馬を飼っている家で随時供物をした。

 大師堂は一間半四方の木造のお堂で、川西四国七十九番の札所である。石造の大師の立像が二体並べてまつってある。一体は古くて顔貌もさだかでない。二十一日の縁日には老人たちがお堂に集まってお籠りをした。

 地蔵堂は間口三尺の小堂。石造の地蔵さまがまつられている。寄進者の名らしいものが台石に刻まれているが判読し難い状態である。年号だけは嘉永六年(一八五三)と読みとれる。旧の七月二十四日は(現在は八月十七日)地鹿盆で参詣者が多く、戦前は千燈明の行事があった。

 安産と子育ての仏さまとして信者の多い子安観音は川西西国七十八番の札所である。高さ一尺余りの木彫の座像が拝される。西国第三十番、本尊千手千眼観音菩薩という新らしい表示がお堂に見られるが、古くから単に「子安観音」とムラの人達にはいい習わされている。

 「筑前続風土記付録」は天明四年(一七八四)から六年に亘って調査されて成った地誌であるが、その中の芦屋村の条に「貴船二祀アワダイジョウ子安堂アワヤ 地蔵堂アワヤ」と記るされている。

 大師堂についてこんな話が伝えられている。ある時お大師さまの札所巡りをする遍路某がしばらく粟屋に足をとゞめていたが難病にとりつかれ、息を引きとるときに、「わたしが亡くなったあと供養を続けて下されば、このムラに悪い病気ははやらせません」といったという。その後間もなく大師堂が建てられたという。

 これらのお堂が建っている丘に池の方から登る十五段の石段がある。石段を登りつめたところに、「世話人本田伊六」「明治十二年卯三月」と刻まれた小さな石柱がある。区内の墓地に本田伊六夫妻の墓碑があり、伊六は明治二十二年十二月に七十一歳で亡くなっている。この石段を寄付したのは桜井早苗というこの地方の庄屋であったといわれ、日蓬宗の信者とみえ、「貞正院深実日徳居士」という戒名で、明治十七年七月に没している。夫妻の墓碑は区内の一本松墓地にある。

  路傍の神仏                    前に戻る

 粟屋からいわゆる西郷(にしごう)(岡垣町)へ通ずる道路ばたに笠塔婆形式の高さ台石共約五尺の石塔がある。古くから現在の位置にある砂岩性のこの石塔は「たぐりの神さま」と区の人たちは呼んでいる。正面の四文字は「庚神尊天」とわずかに読みとれる。咳に霊験があるといわれ、祈願をして全快すると、そのお礼に豆腐を供えたという。

 いまは道路拡幅のためにとり除かれてしまったが、自然石の「さいの神」という石塔があった。さえの神ともいい旅行の安全を守る神で道祖神などともいう。粟屋の人達は「わらじ神さま」といって、足を軽くする神さまとして信仰していた。祈願のために多くの草鞋が供えられた。この石塔のそばに大きなタブの木(やぶ肉柱)があったが、これを切ると災難があるとされていた。「わらじ神さま」もタブの木も車時代の犠牲となって姿を消してしまった。

  信仰行事と習俗

 荒神祭り・かまどの神さま三宝荒神の祭りは正月、五月九月の十八日と決まっていたが、座頭さんとよばれる盲憎の日程の都合で各戸が一定の日にというわけにはいかず、戸畑(現北九州市戸畑区)から出かけてきた盲憎は区内の家々に泊って幾月かかかって荒神祭りをしてまわった。

 直経一尺五寸位の茅の輪を作り、ご幣を切ってかまどの」の神棚に飾り、また、その家の主人の歳の数だけの小餅をこの盲僧は供えさせたという。

 飛梅講・粟屋には信仰的な講集団として、区内の戸主で組織した飛梅講というのがあった。太宰府天満宮に参拝することを目的に積み金をした。一度に全員が参拝するのではなく、毎年二人づつが代参をして神社からお守り札を受けてきた。代参役が回ってくるのに十年以上かかったが、当番年のくるのを戸主の誰もが楽しみにして待ったという。

 お潮井取り・夏期中の無病息災を願って、区中の各家が順番に芦屋の浜までお潮井を探りにいって、それを各戸の門口に備えられた木製の潮井箱に入れて回った。この行事は今次大戦の最中まで続けられたという。

 チンカラカン・これは区内の子供たちによる夏休み中を健康に過ごすようにという願いと、悪疫退散のための行事である。明治時代の初めに伊勢参宮をした本田久内という人が大数珠を買い求めて帰り、それ以来この行事は始められたという。数珠は梅の木の芯、で作られ、輪にすると直径一丈三尺余りで八畳の間いっぱいになる大きさである。子供たちは毎夜二、三十人位が参加し、数珠を交替で肩にかつぎ、一同「なんまいだあ、なんまいだあ」と唱えながら


   仕事着と運搬具

 男の肌着(下着)は木綿のシャツに猿股(パンツ)叉は褌であった。女は横枠を着て腰巻をした。

 農作業には男はシャツの上に法被を着て股引をはいた。手には甲掛(こうかけ)をつけた。(こうがけ・手甲という地方もある)履き物は草鞋(わらじ)か足半(あしなか)であった。足半ははな緒付履き物の一種で、その形が足裏の半分位なのでこう呼ばれる。 被りものは麦藁帽子叉は「たこんばち」であった。たこんばちは筍の皮で作った笠で、ところによってたこのばち、たこのばっちょという。夏季は上体になにも着らず裸での作業が多かったが冬季は厚手の法被を着た。

 女は襦袢の上に法被を着て下体は腰巻だけが多かったが昭和時代に入るとモンペに代っていった。手には甲かけを付け、すねには脚半をつけた。履き物は草鞋か足半で、被りものは手拭にたこんばちであった。冬季は男同様に厚手の法被を着た。

 農作業に於ける雨具は男女ともに、綜欄か藁で作った蓑で、防寒具としては主として漁師や川ひらたの船頭たちが着た 「どんざ」という古着を糸で綴った厚手の法被を着した。

 肩担ぎによる物の運搬には畚(もっこ)と「ろくしゃく」(天ぴん棒)を使用した。「ろくしゃく」は長さ約一間(六尺)の杉丸太を二つ割りにして作ったが、手頃な雑木も使った。、王に畚に作物、肥料などを入れてこれを担いで運んだ。

 畜力による物の運搬には、藁で編んだ長形の畚(長畚といった)を牛や馬の背から四方に下げて、これに物を入れて運んだ。こうした運搬方法のほかに、車力、牛車、馬車が使用された。これらの殆んどが丈夫な樫材で作られていたが、すべて町(芦屋)の車力屋という製造所に注文して作らせた。下肥とする糞尿の運搬や、作物などの運搬に欠くことのできないものであった。

   食事と飲食器                  前に戻る

 平常食は朝飯を午前五時から六時の間に食した。主食は麦飯で、麦を三割から五割白米と混合して炊いたもので、丸麦の場合は別に煮てそのあと米と混ぜて炊き、平麦は最初から米といっしょに炊いた。朝食には格別のおかずはなく、ほとんど味噌汁に漬物であった。朝と畳の間の十時頃には甘藷などの代用食で一服しながらお茶を飲んだ。昼飯は十二時から一一時の間。副食物はたいがい野菜の煮付に漬物であった。三時頃「小びる」 といって甘藷や餅などを食べたが、ご飯を食べることもあった。

 晩飯は八時から九時の間で、野菜の煮しめに漬物、時には魚の煮付けに漬物という時もあった。夜業が終ると夜食に味飯を炊いたり、甘藷を蒸すか、焼くかして食べた。

 平常の代用食としては、小麦粉の団子汁、そば粉、甘藷、はったい粉などであった。はったい粉は裸麦を炒って石臼でひいて粉にしたものを熱湯で練って食べた。

 晴れの食品としての餅は先ずお正月の餅があるが、三月、五月のお節句にはひし餅、がめの葉餅などをつくり、十一月の亥の日には亥の子餅を搗いた。

 糯米を混合して炊く赤飯は「おこわ」といい、家屋などの建築や、家族の祝儀ごとによく炊かれた。

 副食物として欠かせない漬物は、秋から冬にかけて干大根を塩づけとした。千本漬けといい四斗樽一丁につき塩二升(三、六?)米糠五升(九?)の割で漬ける。長期保存のものは塩を倍量とした。夏季には胡瓜、茄子、蕪などを漬けたが、また秋から冬にかけては、胡瓜などの塩漬けにしたものを味噌漬けとした。味噌漬けは主としてお客に供するためのものであった。

 保有食としては余りご飯を干して糒としたが、甘藷を表の間の床下に土でかためた貯蔵場をつくってもみ殻で囲った。

 飲食器のうち飯わんは茶碗といい、陶磁製のものを使ったが、汁わんはお椀といって木製のものが多かった。

 飯びつほおひつといい、木製の桶で竹の輪で締めたものであった。夏季は竹製の飯じょうけで、中に木綿の布を敷いて使用した。おひつは町の桶屋に注文して作らせた。

 日常の食事用の膳には、箱膳と伊勢膳があった。箱膳には一人分づつの食器を入れ、その蓋を反してこれに食器を置いて食事をした。伊勢膳は低い膳で、これらの膳は殆んど春慶塗りであった。

 晴れの膳には二の膳付の本膳を使用した。お客用である。お膳類は町の店にも売っていたが、こうした物を専門に行商人が年に何回かムラにやってきた。

 弁当入れのことを「くらがい」といった。竹製と、柳の木で作ったものがあった。(注・壱岐では飯びつのことを「くらがい」という。)

 炊事用具のうち鍋に「つる鍋」というのを使った。鉄製でつるの付いたものでいろりの上に吊るして煮炊きをした。大量にものを煮るためには大形の平釜で「かんつき」というのがあった。つばのある「羽釜」は普通の炊事用であった。

 餅つきや、穀類を搗くためには木目と石臼があったが、木目は多くは松材で作られていた。杵は横杵で餅つき用には桐材と雑木のものがあった。柄は樫の木又は雑木の自然木で、杵はほとんど自家製であった。

   妊娠と出産

 妊娠五ケ月目の戊の日に帯祝いをして岩田帯(斎肌帯(いはだ)の意)をしめた。妊娠中の禁忌としては「椎茸を食べるとよくない」といわれたという。安産のためには先ず粟屋区内にある子安観音に祈願したが、鞍手郡中有木のお地蔵さまにも参詣した。ここでは、女の子が欲しければ赤色の、男の子が欲しければ白色の帯を受けて帰り、それを腹に巻いたという。

 いよいよ出産ということになると、最初のお産の時は産婦は実家に帰ったが、次の時からは婚家で生むのが例になっていた。お産の仕方としては寝産が殆んどであった。出産に対する禁忌、まじないなどはなかったが、出産が終ると産飯というのを炊いて食べさせた。

 出産にあたっては助産を業とする「産婆あさん」が万事とり仕切った。八日目が「ひのあき」でこの日に名をつけた。(「ひのあき」は方言で、産後二十一日目を「ひあけ」という地方もある。) 半紙に命名、千鶴万亀などと書き下方に産児の名を書き、床の間か、神棚に張った。

  成育儀礼

 男子の家では紋付の晴れ着をこしらえ、三十日目に氏神様に参詣した。初正月には親類縁者から破魔弓を贈った。柳の枝に餅花や様々の飾りものをつけたのを床柱に添って立てた。「弓茶」といって贈り物やご祝儀をもらった家々の人を招いて馳走をした。初節句には鯉のぼりやのぼり旗を立て、武者人形などを飾った。初誕生には誕生餅を搗き一升餅を子に背負わせたりその餅を踏ませるなどした。百日目にはお強(こわ)(赤飯)を炊いて誕生以来お世話になった家などにくばる。

 三歳の紐とき、九歳の兵児かきという祝い行事が行われていたが、今ではこのことを知る人は少ない。紐ときの行事は各地で行われたようだが、それまでは付け紐の着物をきていたのを、以後帯を用いるという成長祝いの風習である。兵児かきというのも同様の意味から行われたもので、粟屋区では近所の子供達をよんで鰻頭を食べさせたという。

 女の子の宮参りは三十一日目で、晴れ着をつくり氏神様に参った。女の初正月には親類などが羽子板を贈った。「羽子板茶」といって客を招んで馳走を出した。初節句にはヒナ人形を飾り菱餅を供え客を招んだ。初誕生には男子と同様に餅をつき、饅頭をくばったりした。

   婚 姻                      前に戻る

 縁談がまとまると婿方の仲人がすみ酒を持参し、その後結納の金品を嫁方へ届けた。結婚式の形式としては嫁入婚で、式を聟方で挙げると嫁はそのまま聟方のひととなるのである。出立ちの儀礼は通常結婚式の日か、その前日に友人たちを招待しお別れの意味の客ごとをした。嫁が家を出る時には日頃使っていた茶碗を割った。

 嫁迎えには婿方の仲人夫婦が行き、婿方付近の家を借りて化粧なおしをし、衣裳あらためをした。婿方の仲人の妻がその手伝いをする。嫁入り道具は双方の青年たちが出てー道中の中頃で出会い受渡しをした。その時双方が清酒一升づつを持っていった。

 嫁入りの行列は遠方の時には日が暮れてしまい、提灯をともしたりしたが、嫁は尻からげをして藁葺覆をはいて歩くという有様であった。人家の儀礼は特に変った風習はなく、仲人の妻に手を引かれて聟の家に入った。

 夫婦盃は嫁から婿にまわされ、婿の父母との親子盃があり、兄弟盃となる。盃ごとがすむと本膳が出て酒宴となる。酒宴は明け方近くまで続くことが多かった。

 カネツケ、眉剃りの風習は明治時代の末まではあったという。里あるきは五日目か、七日目であった。

 添え婿、添え嫁の習俗はこの地方にはないようだが、式の当日嫁のお宮参りに嫁の友人たちが付き添う。

  死喪・葬式・墓制

 人の死後の処理としては、死者を北枕に寝かせ、枕飯を供えた。一本の箸はご飯に立て、一本は横にして置いた。また団子を供えるが、これは葬式のあと墓場においてきた。

 死亡の知らせには組内の青年たちが手わけして当った。夜とぎといって近親の者たちは通夜をした。納棺の作法は死者をたらいの中に据えて湯潅をするが、この時近親者は藁の縄たすき、縄帯をする。自木綿を縫って着せたが、糸尻を止めずにそのままにしておく。三角形の白紙を額に当て、銭三文を棺に入れた。茶の葉を枕に入れてすけさせ棺の中に茶の葉をつめたりした。棺の蓋に釘を打つ時は必ず石を使った。いよいよ出棺となると、棺を左まわりに三度まわした。棺が家を出ると、死者が使用していた飯茶碗を地に叩きつけて割る。

 葬式に当っては組(隣組)の者が出て万事世話をした。男子は葬具の用意、墓場の土堀りをした。組の主婦たちは炊事方を担当した。粟屋区の共有物として棺を運ぶための木製の駕籠があった。地蔵堂の横に小屋を建て他の葬具とともに保管をしておいた。

 野辺送りには棺に長い白布をつけ、近親者がこれを引いた。女の近親者は精進髪を結い綿帽子をかぶった。僧侶が葬列とともに墓地にきて読経をした。カメ棺か、棺桶に死者をおさめて墓地に埋め土葬とした。

 死後初七日、ふた七日、み七日と僧侶をよび供養をし、四十九日でとり上げとしたが、百ケ日、一周忌、三周忌、七周忌とまつり、年忌あけは三十三回忌であった。

 区の墓地は三ヶ所であったが、現在では「一本松」と「たっちょう」の二ヶ所にある。(「たっちょう」とは塔頭の北で、古墓、墓地と広辞苑にある。)

 新仏には墓じるしとして戒名、俗名、死没の年月日を僧侶に書いてもらった木碑を建てた。墓碑を建てるのは、死没者の年回の法事に当る年にした。子供も同様であったが死産児の場合は適当な自然石をもって墓じるしとした。

                                              前に戻る

             


粟屋近郊

 昭和初期まで粟屋は唐津街道沿いで芦屋地区の農産物の供給を賄っていた。
 今では、
自衛隊基地が、街道を塞いでしまって見る影も無いが、分断された街道筋の基地の両出口には其の面影が今でも色濃く残っている。
 芦屋町側は芦屋小学校の校庭へ出ている。粟屋側は貴船神社の東495号線沿い粟屋公民館近くに出て街道は赤間の宿へ向かっている。

 前に戻る