瑜珈神社由来記

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瑜珈神社由来記  − 秦  清

芦屋町郷土誌研究会『崗』より      


 瑜珈(ゆか)神社は城山公園の南東側、権現堂山の上にある。白山神社(山鹿兵藤次秀遠の霊もあわせ祭るので、山鹿神社とも言われる)の鳥居前の石段を上ると、すぐ右側に木の鳥居があり、そこに朱塗りの瑜珈神社のおやしろがある。

 神社の祭神は、字迦之御魂神(うかのみたまのかみ)である。宇迦之御魂神は、素養鳴尊を父神とし、大市比賣命を母神としてお生まれなされた神で、稲荷神社の祭神と同じである。農業は勿論の事、漁業舟乗りの開運の神として、篤く人々から信仰されている神である。


 この山鹿の地に御霊(みたま)を奉安した人は、山鹿荘の地頭職、麻生家政である。家政は建久元年に、麻生一族繁栄と荘民の幸福を祈願して、城山の高地におやしろを建立した。

 寛保二年(一七四二)十一月十七日、芦屋の里に未曽有の大火があった。この火事は、幸町より出火し船頭町の間、二十四区、民家六百二十七戸、四百余棟を焼失した程の大火災であった。


 この時、芦屋の復興に立上った人が、芦屋の里老、吉永清三郎(俵屋と号し、酒造業を営む)であった。清三郎は芦屋復興のため、宗像の沖つ宮に万年願(此の祭事は現在でも、浜崎の人々に受け継がれている)を立願すると同時に、この瑜珈神社にも、二十一日の間、権現堂にて禊(みそぎ)をして?芦屋複興の一日も早からん事″を祈願したという。

 その甲斐あって、漁業は日々大漁が続き、商業も又日増に活気を呈し、芦屋の復興は短期間に出来たという。


 その後、浜崎・柏原の人々は、月次裸参りをして、大漁祈願をするようになった。この裸参りは、昭和の初め頃まで続いていたという。現在でも、漁業に携わる人々の信仰が厚く、初漁の鮮魚を持って、お参りする祭事が続いているという。

 なお、瑜珈神社の霊験について左記の実話がある。


 大正三年、遠賀川改修工事の際、権現堂(ごんげんどう)の下、唐戸一帯の石垣を築くに当り、伊予の中村組が、これを請負い工事を始めた。石垣に使う石は、瑜珈神社の下の岩壁を切り割って作った。この工事中に一人の怪我人も無く、無事に石垣は完成した。


 組長の中村某氏は「工事中に一人の怪我人も出なかったことは、これ実に瑜珈神社の御守護に依るとろである」と深く感謝し、お礼に石段を奉納することを思い立った。

 そこで、石段に使う石を取るため瑜珈神社の下の岩壁を切り割り、石を出していたが、地上四、五米の所に巨大な玉石が出て来た。この玉石があれば、今切り出した石材と合わせて、神社の石段は十分に出来る。しかしこの玉石を岩壁から抜き取ることは容易なことではない。中村某氏は抜き取る方法を色々と考えた末、その夜は寝み、あくる朝現場に行った。現場に来て中村某氏は愕然とした。それは、巨大な玉石が一夜のうちに、ひとりでに抜け落ちていたからである。「これぞ?石段を早く築け″との神意であろうぞ」と中村某氏を始め、石工たちは、欣喜雀躍(きんきじゃくやく)短日の中に石段を築き上げたという。


 さて石段が出来上り、其の落成式の当日の朝のこと、又不恩議なことが起った。それは、二、三日前より大時化(ししけ)が続き、落成式の為に神前に供える鮮魚がなく、雁木区の人や中村組の人たちが困っていた折、雁木の区長野口氏宅に滞在しておられた書家の山本真瑞氏が、何時にないことに早起きして、落成式の日の朝早く、権現堂の近くまで行くと、其処の岸に、目の下一尺余寸の鮮魚が打ち上げられて、ピチビチと跳ねていた。貴瑞氏は早速その魚を拾い帰って、区長野口氏に渡しその話をした。真瑞氏の話を聞いた雁木区の人や、石工たちは、今更ながら瑜珈神社の霊験あらたかなることに深く感動し、その魚を供えて、無事式典を了(お)えたという。


 所の人は今でも、瑜珈様(ゆうがさん)といってお参りしている。勝負の神様でもないのに、雁木で芦屋ボートがあっていた時は、お寮銭が多かったという。百円札はおろか、千円札が何枚も一緒に折って入れてあったとか。


 玉石並びに落成式の事は、山鹿雁木区におられる長老の方々の話を、総合して記した。


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