洞 山− 柏原

 前に戻る

崩落が続く洞 山− 柏原
最近崩落防止の工事を行っている



狩尾神社からの堂山と洞山の遠景


不 動 明 王 (立像)− 芦屋 林芳太郎


説 明 板


堂 山 の 千 体 地 蔵 と 石 塔 群

大理石で作られている

 前に戻る

57 洞 山− 柏原

延命地蔵をまつる堂山と、洞穴がある洞山の二つの小島がある、これらを一括してふつう洞山と呼ばれている。以前は町有であったが大正十年(一九二一)九月に柏原区に払下げた。払下げ金額は五〇〇円であったという。

堂山と洞山の間は干潮時になると岩場続きになるが、満潮時には二つの孤島となりよき景観であったが、両島のあいだは戦後埋め立てられ、自動車の駐車場と変った。また最近になって柏原漁業組合が漁船の繋船場をつくるため、堂山北側と柏原岸壁との間も埋め立てゝしまったので、孤島であった洞山も陸続きとなってしまった。

 (先ず堂山より)

◎石 祠 − 大正十年(一九二一)九月 柏原区

 以前は堂山右側の岩場の上にあったが繋船場岩壁をつくるときこゝに移設された。

◎柏 原 漁 港 竣 工 記 念 碑 −

 昭和三十八年(一九六三)三月 柏原漁業協同組合

 起工 昭和二十四年(一九四九)八月

 竣工 昭和三十五年(一九六〇)三月

 組合長  川原  良

 旧組合長  金本伝次郎  鈴木麻吉  西田熊吉

       本田 光雄

◎不 動 明 王 (立像)− 芦屋 林芳太郎

◎説 明 板

堂 山 の 千 体 地 蔵 と 石 塔 群

柏原には延命地蔵をまつる堂山と洞穴がある洞山の二つがある。その洞山の洞穴の上には平家の公達を祀るという墓があって、むかしからこの洞山にのぼると馬に乗る荒武者が現われ岩壁から突落されると浦人に怖れられている。また堂山には延命地蔵尊が祀られ霊験あらたかなものがあり明治三十年ごろ柏原浦にすむ佐野屋の老婆がこの地蔵堂建立を発願しその工事中地下より高さ五〜六十糎程の五輪供養石塔及び板碑あわせて三百数十基を発据した。このように土中に塔塚を築き仏式にのっとり埋められたものは九州では珍らしくその石材として使われている大理石から推定して肥後八代あたりで作られたものといわれている。おそらく平家の一恩顧を受けた落人たちが造塔しひそかに船でここ洞山に運び安徳天皇と共に壇の浦に殉じた平家一門追悼のため八万四千の宝塔になぞらい夥しく埋塔し冥福を祈ったものであろうと云われている。

◎水 盤 − 大正十一年(一九二二)八月 守田仙太郎

◎堂 山 庵 地 蔵 堂 −

 西国第二十番札所

 本尊 延命地蔵尊

◎堂 山 の 石 塔 群(千体地蔵)(町指定有形民俗文化財)

◎蛭 子 神 社 −

 祭神 事代主命

◎鳥 居 (蛭子宮)− 大正七年(一九一八)三月

    柏原区中   縄田  庄七  田中  徳平

    縄田  幸平、  守田 松太郎  秋枝 正四郎

◎社 殿 −

◎洞 山

洞山には高さ約一〇メートル、幅約一二メートル、奥行約三〇メートルの表裏に通りぬけた洞穴がある。この空洞は永年の風化作用によって出来たものであるが、伝説では神功皇后が三韓征伐におもむく途中、芦屋の地に足をとどめ神明に必勝を誓い、弓に矢をつがえて北方の小島(洞山)を射ったら、矢は小島を貫通しさらに進んで岩屋の里の白鳥に突きさゝったという。矢の貫通したあとが歳月と共に大きくなって、現在のような奇観を形成するにいたったと云い伝えられている。

洞山の下周辺には長さ七〇メートル、横三十メートル程の平たい岩盤があり、千畳敷と呼ばれているが、神功皇后はこゝで神楽を催したともいう。 (芦屋町誌)

◎F.Z210Z下関要塞第二区地帯標の石標 −

    陸軍省 第六十号 昭和十年(一九三五)二月十六日洞山の西北の先端に建てゝある。戦前この附近一帯は要塞地帯といわれて軍事上の機密地帯であった。下関要塞司令部の許可なく写真を撮ることや、風景画を書くことは出来なかった。