魚 見 公 園 − 柏原道左側の小山の上

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魚見公園 − 柏原道左側の小山の上
魚見番所があった。


万 葉 の 歌 碑(表)

万 葉 の 歌 碑(裏) − 昭和四十四年(一九六九)五月


藤 本 春 秋 子 の 句 碑


野 見 山 朱 鳥 の 句 碑

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51 魚 見 公 園 − 柏原道左側の小山の上

こゝからは響灘の海上一面が見わたせる。魚の群がくると波の色が変るので、この山上に見張りが立っていて魚群の来たことを浜に待期する漁夫に、どの方向に魚群がおるかを知らせた魚見番所があった。魚見山というのは、古くから名づけられていた呼称である。

国民宿舎「あLや」のある所で今は展望台もできて、こゝからの眺望は特に素晴らしく、右手はるかに北九州市の白島、左手に玄海の地ノ島を捉えることもでき、夕映えに染まる響灘の景は、貝原益軒の絶讀をそのまゝ今に伝えている。

◎万 葉 の 歌 碑 − 昭和四十四年(一九六九)五月

 天霧(き)らひ ひかた吹くらし 水茎の

 岡のみなとに 波立ち渡る

           万葉集 第七巻 覊旅(きりょ)作

 大意 空が曇って東南の風が吹くらしい

    遠賀川の河口に波が一面に立ち渡っている

    覊旅は辞書によると「たびびと」とある。この歌を

    詠んだ人の名は不明である。

この歌碑は昭和四十四年芦屋町町制施行八十周年を記念して、こゝ魚見公園国民宿舎前の高台に建立されたものである。芦屋町は古くから大陸文化伝来の地として発展し、特に奈良朝時代太宰府政庁のあった折は、博多の荒津の港と共に政治的文化的交流の要所として、数多くの旅人がこの地を訪れたものと思われる。この歌も誰が作ったかわからないが、旅の途中芦屋に立ち寄り歌ったものであろう。白波の見える広々とした遠賀川の河口にのぞんだ旅人は、どのような気持でこの歌をうたったのであろうか。

※瀬戸内海から響灘に出た船は、そのまゝ航行するかまた洞海湾に入って江川をぬけるか、いずれにせよ芦屋津に寄港したものと思われる。博多津から京都へのぼる船も芦屋津に寄ったであろう。官人だけでなく公卿・僧侶・一般庶人も海路は同じ経路をたどったと思われる。

芦屋津は支路ながらあたかも水駅のような賑わいをみせていたことだろう。芦屋津は島門の駅との関係が深く、また良港だったので旅人の往来が多かった。

中世にかけて芦屋はますます栄え、博多・箱崎につぐ津として賑いをみせた。都を離れ故郷を離れて旅をする人たちが芦屋に立ち寄り、芦屋を詠んだ漢詩・和歌の類の多いことは、人の往来がさかんで、自然に恵まれた芦屋は風物を愛し詩歌を愛する人達にとってこの上ない所だったのだろう。 (芦屋町誌・芦屋の栞)

◎藤 本 春 秋 子 の 句 碑 −

               昭和五十三年(一九七八)四月

          魚見公園国民宿舎右側裏の高台上り口

月の夜の 稲架けあます 古墳の前

この句碑は「浜木綿俳句会」会員たちが、藤本春秋子氏の還暦祝いと同会創立二十周年を記念して句碑を建立したものである。藤本氏は七十一号を迎えた俳誌「浜木綿」の主宰である。

◎野 見 山 朱 鳥 の 句 碑 −

       昭和四十五年(一九七〇)八月 浜木綿俳句金

              魚見公園国民宿舎右側裏の高台

鵜の湾を 八重の冬波 うちしらめ

この句碑の作品は昭和四十四年二月芦屋海岸で詠われたものである。定礎として生前先生が句作に指導に旅行等に巡歴、その足跡を残されたゆかりの地、すなわち北は北海道から南は鹿児島までの全国各地から真心もって寄せられた石・砂・土・噴火若・熔岩・陶片・埴輪・苔・木の葉など九十余点を埋めてある。こうして真心を籠めて建立した此の句碑は、全国に魁け朱鳥先生の第一号のものである。野見山朱鳥先生は大正六年(一九一七)直方市に生れる。昭和二十年(一九四五)よりホトトギスにより高浜虚子に師事する。昭和二十七年(一九五二)直方にて俳句雑誌「菜殻火(ながらび)」を創刊、その主宰であった。先生は昭和四十五年二月五十二才にて逝去された。

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