高 山 彦 九 郎 の 歌 碑−(浦区)

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高 山 彦 九 郎 の 歌 碑−(浦区)


(碑文裏側)


粟島神社の鳥居横に建っている(左側)

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43 高 山 彦 九 郎 の 歌 碑−(浦区)

   昭和五十六年(二九八一)三月 芦屋町教育委員会

浪懸(なみかけ)の 岸に望めば から國も

   海をひとえの となり也けり 彦九郎正之

 (碑 文)

寛政の三奇人の一人といわれた高山彦九郎正之は、寛政五年(一七九三)五月二十九日山鹿狩尾宮の神官波多野庸成宅を訪れた。そのとき彦九郎を囲み庸成と浦大庄屋であった秋枝広成らの三人は、幕府の政治を批判し時世を憂い、夜を徹して談論したといわれている。また浪懸の岸にのぞみて深い感慨の歌を残し、六月四日遠賀川を渡り芦屋から筑後に向かい、同月二十七日現在の久留米市で自刃した。

※高山彦九郎正之の「筑紫日記」には、彦九郎が山鹿・芦屋を訪れたときのことが細く書きとめられている。寛政五年(一七九三)筑紫への旅に出た彦九郎は、豊前から筑前に入り五月二十七日小竹を発ち、直方を経て本屋瀬に宿をとり、二十八日木屋瀬から橋橋に出て香月に入った。中間で杉森社神主千々和氏と別れ、二村に着いて泊った。「二村に入って宿す、千々和蘭士という、八劒社を拝す、木屋ノ瀬より北二里斗此の辺都て水茎の岡也という」と日記に記されている。二十九日は晴、ときどき雨が降った。この日立屋敷・三頭を経て、山鹿狩尾宮の神官波多野康成(やすなり)(伊藤常足の甥)方に泊った。安徳帝の茶臼山の行在所のことや、津軽の仙女物語(不老長寿のほら貝伝説)なども聞いている。六月一日は快晴、祇園社・狩尾大明神などに詣でた。六月二日は雨が降った。夜、彦九郎は波多野庸成とおそくまで談じこんだ。山鹿の秋枝広成もきて話にくわゝった。庸成は和漢の学に通じ、尊王の志もあつかった。秋枝広成も好学風雅の人である。「幕府の政治は委任政治であり、天皇親しく政をとられるのが正道である」というのが彦九郎の信念だったから、この夜の談論はつきることがなかった。三日は朝雨が降りのち晴れた。四日は晴、彦九郎は遠賀川を渡った。「遠賀川を渡る、百二十五間、右の方垂間(たるま)野(の)の橋の跡坤に渡る、芦屋に橋本とて有、橋杭も有と伝う、渡りて芦屋町也千軒」と日記に記されている。この日は神武社の神官黒山安房守方に泊った。神武社の由来や吉永清三郎が神武社を再興したことなども日記に書きとめた。五日晴、この日彦九郎は礼服して神武社に神拝したのち芦屋を去って筑後に向った。久留米に近い櫛原村の森嘉膳宅に着いたのは六月中旬である。幕吏の目はすでに彦九即の身辺にそゝがれていた。六月二十六日彦九郎は嘉膳宅で密書類を処置し、翌二十七日自刃、二十八日朝絶命した。彦九郎は勤皇の志をいだいて同志をもとめ各地を巡歴した。芦屋に来て後ちょうど一ケ月後に久留米で自刃している。

※彦九郎が山鹿の波多野庸成家に滞在していた時、狩尾神社の大祭がとりおこなわれ、神官たちが大神楽を奏した。このとき庸成宅にいた彦九郎は、礼装して端坐し、大神菜が終るまで膝をくずさなかった。謹厳なその態度に見る人はみな胸をうたれたという。 (芦屋町誌)

※高 山 彦 九 即 の 墓 (国指定の史跡)

久留米寺町の真言宗光明山遍照院の境内にある。彦九郎の名は正之といゝ彦九郎は通称。墓碑の正面には松陰以白居士、左右に自刃した年月日と生国、生前名などが刻まれている。

※波 多 野 飛 弾 守 庸 成 −

鞍手郡古門村の神官伊藤常行の長男として生れる。山鹿村狩尾宮の神官波多野春信が幼少より山鹿で養育し嗣子となり職を継いだ。正六位下飛弾守に任ぜられ天明九年(一七八九)社家頭取となる。和漢の学に通じ博学多才談論和歌をよくし著書も数巻ある。尊皇の志もあつかったので寛政五年(一七九三)には高山彦九郎も訪ねてきて宿泊している。文化十四年(一八一七)七十七才にて病没。

※秋 枝 勘 次 郎 廣 成 −

約一〇〇年間浦大庄屋をつとめた家柄で、波津より山鹿浦・岩屋・脇田・若松に至る海岸のみかじめをしていた。広成の代では三十余年浦大庄屋をつとめている。和歌俳語をよくし句集も出している。岩屋燈台及び白島の碑は其の自力を以て建てゝいる。広成ば亀井南冥に学び特に南冥の弟雲栄と親交深く白島の碑も比の縁によって完成したのだが南冥を憎む同輩の誹(そし)りによって些細の文意を棺にとり之を壊さしめられた。

文化八年七月二十三日伊能忠敬測量の途勘次郎宅に泊った。「測量日記」に「家作広し、領主も御大ある由」と記されている。庸成の墓は大願寺にあり法名は鹿門院建誉功翁宗休居士。

 (芦屋町誌)