遠 賀 川 改 修 工 事

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なみかけ大橋を望む
浅瀬になっている付近までは山鹿側の護岸であった。


同じ場所から反対側の芦屋橋を撮影


昭和初期の後の山鹿の魚見公園付近を望む

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41 遠 賀 川 改 修 工 事 −

遠賀川は江戸時代もたびたび氾濫して、人畜に被害をあたえ田畑を荒廃させた。明治に入って十七年・二十二年・二十四年にも氾濫した。各所で堤防がきれ人畜家屋に大被害があり数千町歩の田畑が水没したこともある。芦屋町・山鹿村とも多くの川ひらたが流失または損壊されて、水がひいてからも生業にさしっかえをきたすような打撃をうけた。明治二十八年にも暴風雨洪水のため遠賀川の堤防がきれ、橋梁が流され人畜田畑に大損傷があった。同三十八年にも遠賀川はまた氾濫し家屋人畜農作物に大被害をあたえた。米麦の損害三〇万円、炭鉱の損害は三〇〇余万円におよんだ。

改修工事施行区域は嘉穂郡穂波村・飯塚町より遠賀郡芦屋町にいたる本流・支流で延長五六粁にわたる広大なものであった。改修工事起工式が挙行されたのは明治四十年四月二十六日である。芦屋町の土地の一部も改修工事用地として買収され、同四十一年十月川敷に編入された。遠賀川河口東岸の山鹿地区の家屋も移転することになった。

山鹿地区の買収筆数(宅地)は次のようである。

    浦   区  九七筆   雁 木 区  七一筆

    渡 場 区 一七筆   三 軒屋区  六筆

    鶴 浜 区   二筆   本村(元町)  一筆

    城 山 区  一筆    訂   一九五輦

明治四十二年五月二日芦屋町で渫渫起工式が挙行された。

芦屋地区の工事は大正五年(一九一六)三月三十一日に終了した。 (芦屋町誌)