須 賀 神 社 −(元町区) 山鹿一九−一八

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須 賀 神 社 −(元町区)
鳥 居 (祇園宮)− 天保六年(一八三五)八月


幟立石柱 − 元治元載(一八六四)村中若者連中
百 度 石 − 天保十四年(一八四三)六月



玉垣修繕舗道 新設寄附銘石


猿 田 彦 大 神 − 天明八年(一七八八)


舗 石 寄 進 の 碑 − 嘉永三歳(一八五〇)六月


鳥 居 (祇園社)− 享保十一年(一七二六)


奉 献 の 碑 − 昭和十一年(一九三六)七月


燈 籠 (式日燈)− 天保十五哉(一八四四)夏六月


そく 盤−大正五年(一九一六)初夏


狛 犬 − 天保六歳(一八三五)四月


本 殿


岡 縣 主 祖 (おかあがたぬしのそ)熊 鰐 宅 址 の 碑


奉 寄 進 の 碑 − 天保七年(一八三六)六月


改 築 記 念 植 樹 の 碑


石 祠
大 黒 立 像 − 文政四年(一八二一)九月
大 神 宮 の 碑 − 弘化四年(一八四七)春


本殿右側に石祠ならんでいる。


近くの民家の庭に若者連中の碑がある。裏を見ると


元治元載(1864年)とある

若者連中とは




お祭り飾り付けの時、係りの人に言って撮した絵馬の数々

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39 須 賀 神 社 −(元町区) 山鹿一九−一八

祭神 建速須佐男神 奇稲田比賣神

   狩尾神社の祭神をも合記する

◎幟 立 石 柱 − 元治元載(一八六四)村中若者連中

    傅 十  長四郎  貞 平  又兵衛

    源次郎  治 七  □次郎  藤 平

    徳三郎  勝 平  治 平

◎百 度 石 − 天保十四年(一八四三)六月

    米屋又右ヱ門  舛一屋半三郎  栄松屋貞兵衛

    石屋  才七  舛屋  弥吉

◎鳥 居 (祇園宮)− 天保六年(一八三五)八月

            濱中又右衛門茂陵

◎玉 垣 −

小田 彦十郎  萬屋  次七  船津  幸平

舛屋  弥吉  蛭子屋久五郎  蛭子屋清兵衛

芦屋町大保正格 小野 清次郎

芦屋町大保正格 関屋 彦兵衛

萬屋 清四郎  岡田屋 定七 常盤屋久右ヱ門

柏原浦保正   秋枝 勇五郎

中西  幸蔵  中西 藤四郎  小田 半三郎

萬屋次左ヱ門  魚屋 重兵衛  穐枝 関五郎

中西 座九郎  峠  傅次郎  中西友右ヱ門

大保正格    林   半蔵

堀江  吉助  多賀谷伊三郎

修多羅村大保正 楠野 太一郎

大城村天保正  松井 仁十郎

柏 原     釜津屋利兵衛  縄田正右ヱ門

桑原定右ヱ門

大保正格    小田 彦五郎

吉野屋 儀平  田中屋忠兵衛  舛一屋想十郎

秋枝  八郎  野間藤右ヱ門  野間定右ヱ門

田中屋 勘助  小田  彦蔵  濱中勘右ヱ門

井上 甚五郎  釘屋  吉平  新屋 文四郎

徳永 托太郎  小河  養律  蘇我  生民

井上  甚作  平橋 喜次郎  吉田屋 根助

塩田嘉左ヱ門  野間 活三郎  小川 作十郎

◎玉垣修繕舗道 新設寄附銘石−

   旧寄附着子孫イロバ脂 昭和十一年二九三六)七月

楠野 太一郎  舛一屋 敏子  堀江  吉郎

峠  勝兵衛  小田 祐三郎  小野 清次郎

釜津 バツヱ  中西 芳太郎

中西  元吉  梶田 高次郎  野間  徳蔵

野間   新  倉野  儀八  桑原定石ヱ門

秋枝  地王  林  情三郎  小田  哲夫

中西 藤一郎

野間 一定  小田  四郎  小田  シナ

田中  政助  多賀谷 三郎  田中  彌助

塩田   茂  平橋  利作  井上  茂夫

小河  作十

発 起 者   藤江 熊太郎

世 話 人   堀江 幸太郎  吉永  米平

縄田 恒次郎  中西 健一郎  野口 喜之松

熊野  貞十  江藤 仙太郎

◎猿 田 彦 大 神 − 天明八年(一七八八)

             明治甘七年(一八九四)一月再建

◎鳥 居 (祇園社)− 享保十一年(一七二六)正月 産子中

◎舗 石 寄 進 の 碑 − 嘉永三歳(一八五〇)六月

    倉野 儀兵衛  高椋 忠兵衛

◎奉 献 の 碑 − 昭和十一年(一九三六)七月

    三原  清  柴田 太平  鶴原 亀吉

    三村芳太郎  中西 吉助

◎燈 籠 (式日燈)− 天保十五哉(一八四四)夏六月

    山鹿魚町庄屋大庄屋格  小田 定石ヱ門繁□

      同町大庄屋格    小田 彦一郎當陸

      同町大庄屋格    林  半蔵正敏

    山鹿呂庄屋大庄屋格   濱中又右ヱ門茂群

◎そく 盤−大正五年(一九一六)初夏

    濱中 又兵衛  中西 藤四郎  多賀谷 熊幸

    小田 彦七郎  平橋磯右ヱ門

◎狛 犬 − 天保六歳(一八三五)四月  多賀谷 伊七

◎本 殿 −

◎岡 縣 主 祖 (おかあがたぬしのそ)熊 鰐 宅 址 の 碑 −

           昭和六年(一九三一)四月 吉田三郎

 今は此所須賀神社の境内にあるが、以前はこの石垣下にあ った。旧山鹿小学校の運動場で此所に居宅があったと云伝 う。

 ※現在福岡県遠賀郡岡垣町大字三吉(みよし)に西円寺という浄土宗の寺があるが、現住職熊鰐正思氏は熊鰐九十二代目の子孫であるという。同家に熊鰐から当主に至るまでの系図が残されている。(芦屋町誌)

※熊襲征伐のため仲哀天皇、神助皇后が九州入りをした時にはるばる三田尻あたりまでお出迎えして、鵬の境野芦屋への水先き案内役をつとめたのが、遠賀郡を支配していた崗県主熊鰐であった。この熊鰐は豪勇だけでなく製塩の業にも通じて、富と力と才とを有していた実力者であった。

※天皇の船が尚の水門に入ってから海が荒れて船が動かなくなった。どうしたのかと問われた熊鰐は「私の罪ではありません、この浦口に大倉主神、菟天羅媛神という男女二神があり、多分この神の故ではないかと思います」とお答えした。

その言葉にうなつかれた天皇は、伊賀彦を勅使にして二神を祭られたら、間もなく海は静かになって無事上陸することができたという。「日本書紀」に記述されたドラマであり、神話・伝説の分野に入るものであるが、芦屋の地がその当時から要衝の地であったことを物語るものである。

※彼の仲哀天皇の「自二山鹿岬−廻レ之入富浦一」と書紀に(ガイドブック芦屋))記されたる崗水門と称するは、今の芦屋湊には非ざるべし。

往古は今の湊は河口浅く渡場の有りし辺は芦など生茂りて、巨船大船などをば容るべき湊にはあらざりLが如し。其の理由は左に述ぶべし。但し今の湊となりLも久しき昔なる事は彼の無題詩集の釈蓮禅が詩などを以ても知らるれ共、上古の崗水門は山鹿の狩尾岬と堂山との間より入りて、芦屋の祇園崎より濱口の辺にて、彼の熊鰐が「是浦口有二男謹軍云々」と奏せし浦口は(芦屋町の東南字濱口の南の丘を月軒という」

是れぞ即ち大倉主・菟天羅媛二神を祭れる岡湊神社の旧社地也。是に由て之を観れば、山鹿は弧島にて、ハゼ島・舟ケ浦・日焼ケ浦・中道などの名今も猶存ぜり)芦屋山鹿の東商、嶋津・若松・鬼津・尾崎・広渡・浅木・虫生津・垣生・東は猪熊・古賀・えぶり・頃末辺までの入海の口なるべし。文禄年間豊太閤朝鮮に軍勢を渡されし時、此の湊に船を集めて渡海せしめられし頃までは、浅川の三頭の上猪熊の辺までは、猶海深くして大船滞りなく上下せしと云へり。然るにいつの頃にか旧湊、山鹿の地西北風の為め、川口埋没して田となり、川上の水悉く今の湊内に注入することゝ成りしより、漸次湊の位置を変じたるは、其の曲折せる地形を見ても察知せらる。況や山鹿の旧湊と認めらるゝ所の地下一尺を据りうがてば、かき殻出ざる所なく、一尺五寸以下に至れば潮水湧出せり、且つ沿岸には前に述べたる如く浦瀬など海濱の名存せり是其一證也。(遠賀郡誌)

◎奉 寄 進 の 碑 − 天保七年(一八三六)六月

    堀江政右ヱ門  濱中又右ヱ門  濱中勘右ヱ門

◎改 築 記 念 植 樹 の 碑 −

         昭和十二年(一九三七)五月 百姓町区中

    三村 俊造   上野 辰松   堀江幸太郎

    藤江熊太郎   生田壮七郎   野中 麻平

◎石 祠 −

 以前この神社垣下にあった熊鰐神社(岡縣神社)の石祠を明 治初年にこゝに移設したものだと云伝う。

◎役 行 者 の 碑 − 宝暦九年(一七五九)正月

                        野中 久次

     大正七年(一九一八)七月 修繕再献

          野中角右ヱ門  長男 仝 茂一郎

                  次男 仝 辰之助

 役行者−山岳呪術者。正しくは役小角(えんのおずぬ)と云い、大和国南葛城(かつらぎ)郡茅原(ちはら)に生れる。三十二才のとき葛城山に登り孔雀明王の像を岩窟に安置して、章夜木食し持硯観法して不思議の験術を得たといわれる。また諾山岳を踏破し、大和の金峰山・大峰山などを開いて修業したが、のち彼の呪術は世間の人々をまどわすものであるとされ、伊豆に流された。大宝元年(七〇一)六十八才のとき許されて京に帰えったが、その後の消息は不明でいつどこで没したかも知られていない。鎌倉時代以後には修験道の開祖と仰がれた。(大日本百科事典)

◎大 黒 立 像 − 文政四年(一八二一)九月

    戎屋  勇八  戎屋 四郎平  縄田屋定右ヱ門

    田中屋伊平衛  戎屋仁右ヱ門  岩井屋徳十郎

    縄田屋幸三郎  戎屋三石ヱ門

                肥前伊万里 石工 七五郎

◎大 神 宮 の 碑 − 弘化四年(一八四七)春

    伊勢講  大保正格 小田彦五郎

    小川 濡五郎  中西友左衛門  野間 定兵衛

    野間 藤次郎  船津  幸平  高崎 半兵衛

 伊勢講といって、お伊勢参りの講をつくることが江戸末期大変に流行した。おぬけ参り、おかげ参りなどともいっていた。

 (本殿右側に)

◎石 祠 −

◎石 祠 −

◎石 祠 −

◎石 祠 −

◎猿 田 彦 大 神 − 文政十二年(一八二九)三月

              小川 作十郎


  
※若者連

 作家・司馬遼太郎は「日本古来の文化は、氏族制 で代表される 北方的要素と、若衆組で代表される 南方系要素が重層している」と若衆組に興味をもち、熊野の古座川を訪れます。
 日本社会が今なお冥々蔵しているかも知れない暗黙文化について、若衆制がある。普通若衆組、若者組、若連中などと呼ばれ、時に若衆宿、あるいは単に「やど」と呼ばれたりした。村落における若衆制はポリネシア、メラネシア、インドネシアなど太平洋諸島全円に広く存在しているもので、中国や朝鮮には存在しない。
 若衆制度に関する限り、日本列島は太平洋諸島の文化に属している。古代以来存在した。但し、農村漁村の村落に限られていた。若衆組に加入(宿入り、組入り、若者入り)するのは、十五歳前後で、妻帯すると普通脱会する。加入の時は、村のオトナ制に属する人の紹介がいる。加入には儀式があり、上席、若衆頭が着席し、左右世話役が座り、ついで年齢順に若衆たちが居並ぶ中で、様々な宣誓をする。加入すれば、夜は仲間と共に寝るのである。若衆制の方は祭礼における神輿振りなどを示す神事を受け持つほか、山火事などの消防、海難の救助、更には他の村との水争いなどの場合の、いわゆる軍事面を受け持っていた。その頭は若衆宿の運営に関する限り、ムラの長と対等の立場にあったという。
 あの西郷隆盛もこの組織を抑えることが出来ず、俺の体をくれてやろうと先頭に立つ意外に出来なかったという。

 若衆制は明治の後期になり、政府の思惑で扱いやすい青年団として組織を変えられていく。今では若連中などの若衆制は無い。司馬さんはこの若衆制の変化した組織が現代の学生運動であり連合赤軍は最たる変化形として現れた姿なのではないか。とも言っている。