大 君 神 社 − 山鹿大君

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鳥居 (大君神社)
 昭和九年(一九三四)十月 大君区中 神掌 波多野春彦
幟 立 石 柱
昭和九年(一九三四)十月


水 盤 中本熊次郎 小野八朔
昭和二年(一九二七)四月


石 祠 大正7年4月吉日再建
発起人 有田半右衛門 小野藤吉
世話人 江藤嘉作 有田善兵 中本熊次郎


菊16紋章が陽刻されていた。


大君炭鉱が創業されていた昭和37年ごろまでは
この建物でお祭り行事が行われていたのであろう。


石祠 明治35年9月旧大君神社石祠
かって合祀されていた大山祇大神は
日炭高松の閉山により祀られていない。

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22 大 君 神 社 − 山鹿大君 (薬師堂より徒歩十三分)

◎幟 立 石 柱 − 昭和九年(一九三四)十月

◎鳥 居 (大君神社) −昭和九年(一九三四)十月 大君区中

◎水 盤 − 昭和二年(一九二七)四月

◎石 祠 − 明治三十五年(一九〇二)九月

◎大・君 神 社 由 緒 の 額 −

 祭神 安徳天皇  大山祇大神  創立年不詳

寿永二年(一一八三)山鹿城主山鹿兵藤次秀遠茶臼山に行在所を設け、安徳天皇を迎え奉った駐輦の跡にして、何時の世からか此の地を社地として安徳天皇・大山祇大神を奉祀す。後大君炭坑が開坑されるや明治三十九年(一九〇六)現在の此の地に社殿を移し、炭坑の主護神として祭祀を厚くす。此の里を大君と呼ぶは他所にかゝる地名なく、安徳天皇の在わせられた聖地による地名にして、此の里に限り水田に蛭を生せず毒蛇文人に毒せずとか、或は社地の下の谷を「稚子が谷」と呼びて幼帝の駐彗し給える故に呼ぶとの伝説あり。

 ※山鹿城へ・安徳天皇を迎える

 寿永二年(一一八三)七月都落ちした平家一門は、安徳天皇をいただいて九州へ入ったが、こゝも安住の地ではなかった。太宰府から宇佐神宮へ移って大官司の宿所を皇居と定めたものゝ、源氏に加担する豊後国の住人緒方三郎囁魂に追われて、また太宰府へひき返した。緒方の軍勢が攻めにのぼって来たので、筑後国高野本庄でむかえ撃ったが、さんざんに打ちやぶられて退いた。平家軍は太宰府をひきはらい安徳天皇、一門の公卿、女房たちと共に、筑前箱崎の方へ逃げた。「平家物語」「源平盛衰記」などに逃避行のありさまが描かれている。「おりふしくだる雨車軸のことし。吹く風砂をあぐとかや。おつる涙、ふる雨、わきていづれも見えざりけり」「御足よりいづる血は抄(いさご)をそめ、紅の袴は色をまし、白き袴はすそ虻にぞなりにける」といった雨のなかの悲惨な逃避行であった。住吉・箱崎・香椎・宗像を過ぎ垂水(たるみ)山・鶉浜(うつらはま)をこえ、山鹿兵藤次秀遠の案内で山鹿城に入った。このとき安徳天皇は六歳であった。高倉天皇の第一皇子で、名は言仁、母は清盛の娘徳子(建礼門院)である。秀遠は山鹿城東方の茶臼山に安徳天皇の行在所を造営した。「大君」という地名はそれに由来している。大君神社が祭られ、菊の紋章をうった石祠があるのは、安徳天皇を奉記したものである。「お花畑」という地名も残っているが、これは安徳天皇をなぐさめるためお花畑をつくったので、その名がおこったのだという。平家の公達が鶴と遊びたわむれたという谷間には「稚児ケ谷」という名がつけられたという。平家一門の山鹿滞留期間は半月以上、一ケ月たらずであったといわれている。

※都落ちしたときには、安徳天皇・二位尼(清盛の妻)・建礼門院はじめ女官たち、宗盛・時忠・敦盛など公卿一〇人、信基・清経・忠房など殿上人一六人、一門につながる二位僧都全責・中納言律師仲快ら、また家人七〇〇〇余人がいたが、途中または九州入りしてから抜ける者も多かった。

(芦屋町誌)