城 山 中 世 墓 群 の 址 の 碑

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城山中世墓群の址の碑
(雁木区)城山公園内左側


石碑裏部


1977年公園整備事業の際に発見された城山中世墓群発掘現場

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13 城 山 中 世 墓 群 の 址 の 碑 −

 (雁木区)城山公園内左側

 (碑 文)

この山鹿城跡は壇の浦の合戦に平家と運命を共にした山鹿兵藤次秀遠の居城であった。源平合戦後麻生氏は山鹿城を支配の拠点とした。昭和五十二年(一九七七)散策歩道工事中、宝篋印塔や五輪塔などを発見し、発掘調査の結果南北朝時代の火葬墓群であることがわかった。出土した墓石や石像は町立歴史民俗資料館裏に移し保存されている。

※◎山鹿城跡中世火葬墓石塔 −

 これらの墓石が発掘された城山公園は約八百年前、源平の壇ノ浦合戦で平家を助け水軍として活躍した、筑前の豪族山鹿兵藤次秀遠の城跡で山鹿氏が壇ノ浦で滅びて後は麻生氏これにかわり城主となる。昭和五十二年三月城山公園の散策道建設工事中、五輪塔など中世の墓地遺跡群が発見され、町教委と県教委が調査した。この調査で五輪塔など供養塔約十余基を発据、人骨片などの埋蔵遺跡が点在しているのが確認された。発掘された墓石には年代も名前もないが、形や刻み込まれている梵字などから、南北朝時代から室町時代初期にかけてのものとみられる。また城跡本丸の一角で見つかり遺骨が火葬されていることで同城の身分の高い武将の墓群と推定される。資料の少ない中世の山鹿城の貴重な出土品である。(広報あしや)

※昭和五十二年三月五日山鹿城跡城山公園の北西側中腹に散策道の工事中、十一糎立方体で四面に梵字が刻み込んである石が発見された。芦屋町教育委員会に連絡があり、宝篋印塔の一部であることがわかり、教育委員長と文化財保存委員鈴木長敏氏・郷土史家藤本春秋子氏等が早速現場に行き、現地調査の結果確認のため六日より今少し堀ってみる事にした六日にはまとまったものは出なかったが、バラバラながら宝篋印塔一基分、五輪塔三基分が堀り出された。以上の話を耳にしたので筆者も七日に現場に行ってみた。土を堀り除いているうちに、十五糎巾で長さ五十糎ぐらいの平たい石が三枚列んで縦に埋められているのが出てきたので早速教育委員会に知らせに走る。行っている間に仏像が二体堀り出されていた。文化財保存委員会から県文化課へ連絡したので、県より松岡調査係長が来られて、本格的に発掘調査をすることになった。吉岡助手も来られ日をおって発掘が進むにつれて、五輪塔が部分的ではあるが数個堀り出された。まとまったものは一つもなかった。

 墓群の広さは前面約八メートル奥行約二・五メートルのほば長方形で、発掘状況より推測すれば約十五基分はあっただろうということだ。全面に海岸で波に洗われた拳大(こぷしだい)の黒色の石が二十糎程の厚さに敷きつめられていた。骨は火葬したもので骨らしく原形をとどめているのはほんの少しで、粉々になって土とまざっているのが大部分で、まとまってあるのが五〜六ヶ所ぐらいであとは散布したような状態で土とまざっていて、著でつまんで骨をひろい集めるのに大変な時間と労力を要した。今回の発掘調査で特に記するものといえば、頭骸骨の上部が一個出たことだ。これは頭骸骨の上に平たい石が一枚かぶせるようにのっかっていた。この頭骸骨は形をこわさないように、下部まで土と一緒に堀り出して県文化課に持ち帰えった。性別・年令・年代等の調査をする由。

 また土師器の小さな破片が数個と珠光青磁の小さな破片が一個出土した。発掘調査の期間は三週間ばかりで三月二十八日に終った。発掘のあとは堀り出した事大の石をもとのように敷きつめて列べ、その上に土をかぶせて埋めもどした。今は散策道となっている。松岡係長の話では発掘したばかりではっきりは言えないが、宝篋印塔や五輪塔の形から推測すれば南北朝時代(約六〇〇年前)のものであろう。

 城郭内に墓群があった話は聞くが造成工事後の話で、今回のように原形をとどめてあるのを手がけるのは始めてなので貴重な資料になる。おそらく山鹿城ゆかりの武将の墓であろうと。