史 蹟 山 鹿 城 址 の 碑

 前に戻る


る史 蹟 山 鹿 城 址 の 碑 −
昭和四十一年(一九六六)三月


 前に戻る

12 史 蹟 山 鹿 城 址 の 碑 −

 昭和四十一年(一九六六)三月

(碑 文)

山鹿城は朱雀天皇の天慶年間鎮西奉行藤原の俵藤太秀郷の弟藤次によって築城され、以後代々山鹿氏の居城となり、年を経ること二百四十年山鹿兵藤次秀遠が城主となった。寿永二年(一一八三)七月源氏に追われた平宗盛は、幼帝安徳天皇を奉じて西国に落ち、さらに同年九月に太宰府に逃れる。此時山鹿城主秀遠は一身の盛衰を顧りみず尊王の大義を体して安徳天皇を迎え、この城にこもり一意専心天皇の為に忠勤を励んだ。元暦元年(一一八四)秀遠は平氏と共に.屋島に出陣し忠烈むなしく戦に破れ、壇之浦において山鹿氏は滅亡するに至ったのである。山鹿氏滅亡の後は代々麻生氏の居城となった。※山鹿城址は芦屋町山鹿区の東南遠賀川に臨める小山にあり。断崖四十五メートルの丘陵上には本丸の些一段余の平地あり二の丸の址も亦二段余あり、此の城山鹿氏代々の居城なりしが源平の乱に山鹿氏亡びて麻生氏之に代りて之に居れり。

平家物語八巻に寿永二年(一一八三)九月平家は緒方三郎囁封に追ばれて太宰府も落ちられしが、山鹿兵藤次秀遠数千人にて平家の御迎に参る、斯くて秀遠に具せられて山鹿の城に籠れり、山鹿にも敵寄すると聞えしかば取る物も取りあえず、平家は小船に取乗りて夜もすがら豊前国柳浦へぞ渡られける。(遠賀郡誌)

※山鹿氏の在城は約二五〇年、その後は宇都宮麻生氏が約四〇〇年余を所領し遠賀を中心にこの地方を支配した。