筑前蘆屋釜鋳造跡の碑

 前に戻る

筑前蘆屋釜鋳造跡の碑


碑 文  (旧金屋町)中ノ浜六―三〇


高倉神社にある毘沙門天像は芦屋鋳物師の作であるる。


岡垣 高倉神社

 前に戻る

74 筑 前 蘆 屋 釜 鋳 造 跡 の 碑−

(碑 文)   (旧金屋町)中ノ浜六―三〇

芦屋釜は遠賀川の砂鉄を使い、鎌倉時代より独特の技法にて鋳造され、梵鐘や鰐口、香爐等と共に天下に珍重された。大内氏滅亡後その鋳造は急に衰え、工人も全国に四散し寛永年間には殆んど絶えた。元金屋の地に之を建つ。

※天下にその名を誇った芦屋釜はその鋳造所跡が判きり記録されていない。これはどうした事由であるか全然わからないが、在銘の製品には、芦屋金屋・本金屋・芦屋庄金屋などと銘に残っているが、鋳造場所の無いものが大部分である。

芦屋側の金屋(当時釜屋町と云われていた)は現在鋳造所跡と判きり一般に言われているが、他にも二〜三ヶ所あった筈であるが記録にない。山鹿側も山鹿左近掾という釜師と、大江姓や太田姓のある名工が出た所で、こゝにも二〜三ヶ所はあっただろうというのは噂だけで証拠はないが、たしかに釜座のあったことは否定することは出来ないだろう。山鹿地区では、最近鉱滓が多量出土された、田屋区重岡重俊氏宅の裏ではなかったかという説が濃厚である。それらしき石祠があり今でも毎年フイゴの神を祭る行事が行われている。そのほか山鹿元町の出口という所に野鍛治があったが、その屋号が釜屋といゝまた釜屋屋敷とも称せられていた。この家は昔芦屋釜を鋳造していた家柄と伝えられていたが、他村へ移住して今は現存していない。(慶応二年生れ鶴原吉三郎氏の談)

※明恵上人が宗から帰朝のとき中国の技術者を連れて来たものと言われるが、その技術者が芦屋の俗言でいう「鋳かけ屋」に教えて、砂鉄採集から製鉄技術までを充分研究して、後に名工(大工・小工)を産み出すまでに飛躍的発展の緒についたものと考えられる。

※芦屋釜が鋳工技術ではすぐれていたと言うことは、あらゆる学者たちや研究者たちが異口同書に立証されているが、これは芦屋釜の特長とでもいえる「引中心(ひきなかご)」という製法があって他所にはこの技術をもつ釜師はいなかったという。筑前土産志によれば「天明釜も名産なれども芦屋に及ばず、京・江戸の釜匠も芦屋流に伝うる引中心と言う精巧の法を知らず」と書いてあるが、この芦屋釜独特の技術が芦屋釜にあったので、優秀な作品が出ていたものに間違いはないようである。

                       (芦屋町誌)

※太田氏は山鹿に居住し、菊桐の御紋の釜を鋳て宮中に捧げ山鹿左近接と称せられたが、世の茶人が菊の釜・桐の釜といって珍重するのは、実にこの釜から起ったのである。

古い芦屋釜には、雪舟や土佐・狩野初代の画匠の画を鋳入したものがあり、如何にその品位を認められていたかを知ることが出来る。足利義政の頃、所謂東山時代が出現し茶の湯が流行したが、茶釜の需要と共に芦屋釜が流行し、雪舟の描いた松杉・梅竹の画・瀟湘の(しょうしょう)の模様の入った芦屋釜、土佐隆信の芦雁、狩野光信の放れ駒等の下絵のある鎔範は、名匠の作と共にひろく珍重されるようになった。茶の湯は織田信長・豊臣秀吉に至って益々盛んになり、千利休のような名人が出たが、何れの時代にも芦屋釜が用いられ珍重されたのである。

※芦屋釜の原料は附近海岸の砂鉄であったが単に砂鉄ばかりでなく、梵鐘や鏡その他仏像・鳥居等の中には青銅で作られたのも数多いのである。

※芦屋釜は鎌倉以来江戸中期まで四百有余年の間鋳造されて茶の湯釜の元祖とまで言われていたが、寛永年間太田新佐衛門を最後として断絶した。然し芦屋の鋳工師が国内の津々浦々に転住しているが、これ等の工人は当然転居地で芦屋風の技術を以て茶の湯釜や青銅品を鋳造したと思われる。

※「箱崎釜破故(ふばこ)」に依れば、寛永七年(一六三〇)―(石川五右衛門死後三五年)ー浅野彦五郎が釜煎りの罪に処せられた翌八年将軍家光が惨酷な道具に使ったという理由で、その鋳造を禁じたと云われている。(芦屋の栞・芦屋町誌)