県 立 蘆 屋 中 学 校 跡 の 碑

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県立蘆屋中学校跡の碑と高等芦屋小学校跡が並んでいる


駐車場の駐車に邪魔にならないように建っている

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71 県 立 蘆 屋 中 学 校 跡 の 碑 −

  芦屋町庁舎裏のテニスコートの西北隅(今は駐車場)

 (碑 文)

県立芦屋中学校は福岡・久留米・柳川・豊津・甘木の名中学校と共に明治十三年(一八八〇)に創設され、四年制を採用し赤間・直方に分校をおいた。明治十八年県財政の窮迫により惜しくも廃校となり、公立涵泳学校となるも同十九年遂に閉校した。修学途上で学窓を去った生徒や先生方の心情を思い、創立に尽力した町民の教育に対する情熱の深さを偲びこの碑を立てる。

※県立芦屋中学校を設置するときには、遠賀郡を中心にした地元民の熱心な誘致運動が行われている。他の五中学はみな藩校という前身があったが、芦屋中学はまったくの新設であり、設置には巨額の費用が必要であった。このため郡内の有志が芦屋で何度か会合をもち、郡民の努力により寄附金を集めて明治十三年金屋に校舎を建築し、県へ献納したのである。

授業料は年五円五十銭を原則としたが、ほかに三円五十銭・二円の二等級が設けられ、これが経費の一部ともなった。

※当時の中学校は、この地方では最高学府的な存在であり、今日の大学に入学する以上の魅力と尊敬を受けていたという。

芦屋中学校の所管は遠賀・鞍手・宗像の各郡で、直方分校・宗像分校がある。

※涵 泳 中 学 の 設 立 −

県立芦屋中学板は、地方財政の貧困もあって維持がむつかしく、明治十八年三月、設立後六ヶ年をもって廃校のやむなきに至った。しかし地元では入学生徒一〇〇余名のまゝ廃校するのを惜しみ、存続を望む声が強かった。遠賀郡全郡連合町村会では、このまゝ中学校を公立として経営していくには多額の費用を要したので、高等の学校に入るための変則中学的な涵泳学校を、中学の跡に設置することを決議した。小学中学科卒業以上の能力ある著を入学対象として、明治十八年九月十一日に開校された。修学年限三ヶ年で授業料は一八一ケ月二〇銭。郡内全域が入学範囲とされたため寄宿舎が設けられた。せっかく設立された涵泳学校も財政難の理由で廃止され、その跡に遠賀郡町村立高等小学校を開校することになった。涵泳中学はわずか半年で廃校されてしまった。