福岡藩焚石会所跡の碑

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福岡藩焚石会所跡の碑



(旧金屋町) 西浜町八−八
前のこの通りは昔から変わらない。

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70 福 岡 藩 焚 石 会 所 跡 の 碑−

 (旧金屋町) 西浜町八−八

(碑 文)

福岡蒲では天保八年(一八三七)焚石会所を此の地に設け藩の独占事業とし、財政を助け一部は窮民の御救貸金に使われたが、明治新政府となり石炭の自由採掘が許され芦屋焚石会所は明治五年(一八七二)遂に廃止された。

※役所としての焚石会所は無くなったが、会所の建物は明治八年(一八七五)以来芦屋で活動した石炭商安川敬一郎の「安川商店」の事務所として使用された。ちなみに安川敬一郎は明治十六年(一八八三)より芦屋郵便局長として勤務している。

※石炭の発見についてはいろいろな説がある。文明十年(一四七八)ころ、遠賀郡香目村の畑山金剛山で土民が黒石を堀り出して薪用にしていたとか、杉七郎太夫輿利がそれを篝火(かがりび)に用いていたとか言った文書もある。遠賀・鞍手の石炭山の口碑では、遠賀郡埴生村の五郎太がはじめて燃える石を発見し、それから住民達が脈をさぐって堀り始めたと伝えられている。

三池郡ではすでに文明元年(一四六九)稲荷(とうか)村の農夫伝治左衛門が発見していたともいう。

※石炭は十五世紀ころ発見されて薪用・篝火用などに使われていた。まだ私人の家庭用燃料としてであって、産業化されてはいなかった。当時は燃石(もえずみ)・石炭(いしずみ)・鳥石(からすいし)・焚石(たきいし)・焼石(やきいし)・煽(せん)石・生石・石などいろいろな名称で呼ばれていた。瓦屋・製塩業者・火薬製造業者など小工業者が使いはじめ、しだいに産業化されてくるのは享保(一七一六)ころからである。

※石炭の産出・販売が盛んになるにつれて、藩ではこれの統制に乗り出すことになった。文政年間、芦屋と若松に会所が設けられた。芦屋会所の設立は文政九年(一八二六)一月である。以後、遠賀・鞍手・嘉麻・穂波四郡の石炭は、すべて芦屋会所で取り引きされ、若松へ行く石炭は塩田用にかぎって芦屋会所で許可をあたえ、堀川を通すことにした。若松へ無許可で石炭を運ぶ船は厳重に吟味された。違反船は船をさしとめ芦屋会所へ届け出るようにと示達されている。芦屋会所を通さぬ石炭の相対売りは禁じられていたが、一部の地域にかぎって例外が認められていた。若松・修多羅両村の塩浜・山鹿・蜑住・高須三村・芦屋町の瓦屋用のものや、黒崎田町・山鹿魚町・芦屋町・若松村などで入用な石炭は、山元との直売買が許されていた。

文政十三年(一八三〇)若松にも会所がおかれた。しかし当時は「芦屋会所」「若松会所」とあるだけで、まだ「焚石会所」の名称は使われていない。両会所の組織・運営方法は明らかでないが、これは藩の石炭独占体制の先駆をなすものであった

※石炭はただ家庭用としてではなく、製塩・製瓦・手工業とも結びついて、かなりの販路を広げていた。天保初年には大阪の鍛冶業にも利用されていたという。需要が多くなるにつれて、筑前の石炭採掘量はしぜんに増加し、天保の頃には年々六、〇〇〇斤から七、〇〇〇斤に達したという。販路は領の内外におよんだ。石炭の乱掘がおこなわれ、採掘・運送・販路・収益配分などで業者間の争いが絶えなかった。また江戸中期以後、農村が疲弊し、田畑を失った筑前の農民達は、浮浪化して各地炭鉱を渡り歩き不安な生活を送っていた。藩では彼等を救済する社会事業の一端として、石炭事業を安定させる必要もあった。藩の財源にするためでもある。

藩営の動きは文化年間からあったが、それの根本的な確立を藩に建言したのは松本平内である。天保年間、蒲の財政は悪化していた。時の財用方白水要貞は、石炭を藩営にして財政難を切りぬけようとはかった。筑前の石炭すべてを藩営会所の独占にするため、天保八年(一八三七)石炭仕組方が実施された。先に芦屋・若松に設けられていた会所は、正式に「焚(たき)石(いし)会所」と呼ばれるようになった。藩では三〇項に及ぶ「焚石会所作法書」を両会所に配布して、、厳重な訓令を出し、石炭業一切が藩役所の支配に属することを領民に示達した。

                       (芦屋町誌)