観音寺−(旧中小路)(なかしょうじ)西浜町3−35

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観音寺 本堂
最近建替えられてはいるがコンクリートで作られる
最近の建物のであるが、
ここは木造作りの立派な本堂に建替えられた



国中甘二番札所の石標


御 国 中 二 十 二 番 くハんをん寺


石 門 柱 − 大正三年(一九一四)三月


総 門

黒田長政が建立にして、元禄年中光之の再建



石 燈 籠 (左)− 明治四十三年(一九一〇)十月
石 燈 籠 (右)− 明治十四年(一八八一)六月


水 盤 − 弘化二年(一八四五)十一月 横町 儀四郎


鐘 楼


孝行地蔵大菩薩−昭和七年(一九三二)五月


建替え前の鬼瓦


合祀された神社だろう。

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64 観音寺−(旧中小路(なかしょうじ)西浜町三−三五

潮吉山と号す。禅宗臨済派中本山博多崇福寺末なり。開山は銘渓守文禅師にして、至徳二年(一三八五)の創建なりと云う。

此の寺以前は蘆屋寺とて昔ケ原に在りしを三百余年以前今の地に移せるなり。本尊は観世音なり(坐像高さ三尺)。応永元年(一三九四)の春、芦屋浦の漁夫刀根四郎と云う者、潮入用の中央にて網を下しける折柄、地風烈しぐなり網の内凄しかりしかば怪しみ居たる折柄、木片の網に掛りけるを引揚げ見れば、観音の像なりLにより持ち帰りて尊崇し居たりLを、後当寺に安置せりといえり。此の時より観音寺と改めたり。今の本尊是なり。其の胎中に観音の黄金の小像ありLと云う。是即ち刀根四郎が取揚げし像なりと云う。この金像今は無し。当国三十三所第二十二番の巡拝所なり。古え昔ケ原に在りし時は、七堂伽藍悉く備わり塔頭十二寺ありしとかや。今は悉く廃して延命寺・萬福寺・慈眼寺等の名のみ伝われり。

                       (遠賀郡誌)

※鎌倉時代に禅宗が新に宗から我が国に伝わって、道隆(大覚禅師)元庵(ごつあん)祖元(仏光国師)らの名僧が来朝し諾大寺が建てられ宗勢頻る盛んであったが本朝高僧伝には、この大覚禅師が寛元四年(一二四六)−至徳の約百四十年前−太宰府へ来朝した当時既に芦屋寺は存在していたことが明記してあるので、開山は至徳二年より以前であったと考えられる。是によると守文禅師は中興の開山ならんと。(芦屋の栞)

◎国 中 甘 二 番 札 所 の 石 標 −

         明治甘四年(一八九一)九月  海崎 善六

                          妻  友

◎御 国 中 二 十 二 番 くハんをん寺 −

               天保六年(一八三五)二月

◎石 門 柱 − 大正三年(一九一四)三月

         井地 太郎  上田 房吉  妹尾 秀二

◎総 門 −

 潮吉山の額あり。無準禅師の筆なりと云う。

 黒田長政の建立にして、元禄年中光之の再建なり。

◎鐘 楼 −

◎孝 行 地 蔵 大 菩 薩−昭和七年(一九三二)五月

                  在奉天  大竹 孝助

◎石 燈 籠 (左)− 明治四十三年(一九一〇)十月

                          中西 又七

 石 燈 籠 (右)− 明治十四年(一八八一)六月

     江田 傅七  林 武平妻  吉田 伊右ヱ門妻

     梅崎 善六妻  副田 彦兵ヱ母

◎水 盤 − 弘化二年(一八四五)十一月 横町 儀四郎

◎本 堂 石 段 − 天保十二年(一八四一)六月

                     桑原 新次郎

◎本 堂 −

 遠賀 川西四国第八十四番札所

 本尊 千手観世音

※羅 漢 像 (木彫)−

 山崎朝雲作の彫刻で、原木は「たも」一木作りで印度の修業僧(羅漢様)が刻んである。大正十年(一九二一)帝展に出品したものである。山崎朝雲氏より大昔氏に贈られたものであるが、船頭町大火の折、大昔氏より難をのがれ今はこの寺内に安置されている。

※山岡鉄舟の守り本尊十一面観世音菩薩像とそれに附随した 対幅がある。