61 光 明 寺 (浜口町)

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 61 光 明 寺−(旧市場町)西浜町11-4

 悟真山と号す。浄土宗鎮西派本山西京智恩院に属して中本山たり。嘉禎元年(一二三五)聖光上人の弟子良忠(一書には然阿とある)失矧(やはぎ)川の東に建立せり。其の後大永元年(一五二一)重誉と云う僧(鞍手郡植木村の産)今の地に再興せり。本尊阿弥陀仏(立像高さ三尺一寸)恵心(えしん)僧都の作と云う。辺鄙には頗る壮麗の寺なり。末寺四、吉本三福寺・底井野西光寺・乙丸真龍寺・芦屋安長寺なり。(遠賀郡誌)


◎殺 生 禁 断 の 碑 −


◎総 門 −

 (左側に)

◎鐘 楼 −

元禄三年(一六九〇)六月に鋳造した洪鐘一口、もと千光院にありたるもの、明治三年の神仏判然令により光明寺に移設されたが、惜むらくは戦時中献納して今その物はない。

これには施主長野太郎左衛門重利・太田喜兵衛演近・篠原新八正勝と銘がはいっていた。(芦屋町誌)

(右側に)

◎千 々 和 郎 由 太(ゆうたい)翁 の 句 碑−

            明治二年(一八六九)  門人一同

   片と比ら 立し開家や 秋の暮

表に往来菴恰翁由太居士とあるように、もともとは墓碑として建てられたものであるが、碑の下に遺骨はない。若松区払川にあったものだが、千々和家の遺骨を光明寺の納骨堂に納めたとき、折角門人たちが建立してくれたこの墓碑を句碑として払川より光明寺の境内に移設したものである。

※千 々 和 由 太

名は俊、字は好塚、往来庵と称す。幕末底井野村より払川に来り、医を業とし、傍ら詩歌・俳語をよくし、同好著を集めて教授せり。由太は亀井南巽の門に入り、和歌は伊藤常足に師事す。慶応三年(一八六七)正月二日七十八歳で没す。明治二年(一八六九)に門人相謀り墓碑を払川墓地に建てゝ翁の句を刻む。

 片扉 立し関家や 秋の暮    (若松市誌)

◎圓 光 大 師 坐 像 −

◎宝 篋 印 塔−天保二年(一八二二)八月 和田伊六

◎法 然 上 人 七百五十年大遠忌記念碑−

昭和三十五年(一九六〇)四月

◎仏 像(三十三体)−

遠賀 川西四国第八十三番札所

本尊 正観世昔菩薩

(正面に)

◎大 銀 杏 − 樹齢は四百年以上という。

◎水 盤−安政六年(一八五九)正月 江田 輿兵衛

◎石 燈 龍(智恵光)−明治十六年(一八八三)十二月

高崎 清市  吉永幸右ヱ門

山下 利助  中西 吉兵衛

◎本 堂 −

額「悟貢山」は智恩院大僧正筆

大 壁 画 − 丹生忍冬斎筆になる本堂一杯の壁画で二十五菩薩来迎図・天人・蓮華図・山越阿弥陀その他で数ヶ月をかけてえがかれたものである。ちなみに先生は現在大分県安心院に居られる。

◎宝 物 殿 − 本堂の裏に建設中である。

落成後の写真です



◎一字一石 大 乗 妙 典 −

       明治十三年(一八八〇)二月  吉永 市良助

◎一字一石 大 乗 妙 典 −

      宝暦四年(一七五四)七月   芳永 幸重郎

                      吉永 仲之助

◎仏 像(地蔵学) −

      安政六年(一八五九)七月  坂口 平四郎

                       江田  輿平

 (裏の墓地に)

◎舟 形 の 墓 碑 − 寛文八年(一六六八)霜月

 梅香院殿光誓妙清法尼とある。芦屋町で院殿号が付いてい

 る戒名は珍らしい、どなたの墓であろうか。

◎立 地 蔵 −

◎宝 篋 印 塔 (三部妙輿)− 文政八年(一八二五)春

           刀根 七兵衛恭通七十歳賀

           周防室津 石工 磯邊屋 弥兵衛

◎一字一石 − 天保六年(一八三五)正月

             源空庵主 刀根 七兵衛恭通

※光明寺の過去帳から

薩摩藩士田中彦七の法名が発見された。それによると

 元治二年(一八六五)正月五日

  源 道 軒 俊 国 浄 傑 居 士

         薩州ノ士  田 中 彦 七

と記載されている。

墓は浜崎墓地(常陸丸殉難勇士之碑の左側の小路を入る)にある。

 薩 藩 士 田 中 彦 七 君 墳 墓 目 標

    明治三十七年一一九〇四) 同郷 有川貞寿建之

※元治元年(一八六四)十一月五日幕府の長州討伐の命を受けた薩摩軍約三千人が海路芦屋に入港し観音寺に本陣を構え、町内の寺、神社、民家などに宿陣を張っている。この芦屋宿陣中、薩藩士数人が病死していることが寺の過去帳にも残されている。長州征伐が解決したのは同年十二月二十七日であった。西郷隆盛は翌年の一月一日小倉、芦屋に来て徴兵を伝達している。約二ケ月間芦屋で宿降していた兵士達は一月四日陸路帰路につく。この田中彦七は病気のため徹兵員に加わることができず死んでいる。それは徴収の翌日である。

                  (崗七号 藤本春秋子)

※ちなみに観音寺の過去帳には芦屋の陣営で病没した薩摩藩士二名の氏名・戒名が記されている。

一、 蒲地袖蔵(薩州島津登組下)

   文久三年(一八六三)十二月七日

   功岳宗成居士

   長州御追討之節、当所二薩州公御陣営中、宿浜崎

    南光院ニテ病死被致候幸

二、 田尻嘉兵衛(薩州家臣)

  元治二年−慶応元年改(一八六五)正月三日

   鉄岩招岫居士  行年二十九才

   長州御征伐戦士之蒙命出軍、於当呂宿陣病死

                       (芦屋町誌)


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