6 妙見神社(大城)
(徒歩十四分)
『昭和52年自衛隊芦屋飛行場の拡張により危険区域より半径500メートル以内の民家は立ち退き要求があり妙見神社は立退く事となった。それで今の位置に神殿を移す。
氏子の話では今の社殿は北側斜面で日当たりが良くないそうだ。
元の社殿は由緒ある立派な社殿であったとの事である。昭和53年ごろの妙見神社の写真
社殿の掃除をしておられた氏子の方が、
『今の社殿の建設は、他県の宮大工にするか、地元の大工に頼むかで話し合いでもめたが、地元の大工の熱意により地元の大工に決まった。宮大工の半額で請負、しかも材料はどこにも負けないような材料を使ってくれ、おかげで立派な社殿が出来ました。』
と社殿を見ながら話しておられた。
祭神
伊佐奈岐神
楠木正成公
往古より、大字芦屋一、二八二番地の老松繁茂せる聖地に、大城区の守護神として奉斎していたが、階和五十二年五月現在地に新築移転す。多聞神社・貴船神社・徳満神社・毘沙門堂は別々の所にあったが、妙見神社に合祀す。
※多聞神社 (里人は楠神社また楠公社とも云う)祭神楠木正成公を字南ケ浦に多聞神社と称して奉斎せるを明治四十四月妙見神社に合記す。
南北朝持代、四候隈で戦死した楠木正行の孫が、この大城に来て十六代目まで住んでいたという記録がある。楠氏の子孫が来て築城したことから大城の地名があると、土地の古老は語っているが、築城のことははっきりしない。十六代目に芦屋から若松の脇田へ移住したという。脇田に転じた楠氏の子孫は現在脇田に居住し、また若松区畠田の禅宗禅覚寺住職楠博門もその後裔で、系図は禅覚寺にある。
妙見神社に合祀されている楠公社では、毎年芦屋町先賢顕彰会が五月に楠公慰霊祭を行っている。(芦屋町誌)
※徳満神社
妙見神社に合記される以前は字新屋敷にあった。祭神は猿田彦命で、牛馬の神として農家が主になり祭事を行なった。
※毘沙門堂
毘沙門さまといって小さな祠があった。大城の祭神で田を植えおわ渇とナワシロゴモリといって、各家から思い思いのご馳走を持ちより大変に賑ぎあった。
◎幟立石柱 −明治二十年(一八八七)三月
芦屋邨壮健中
◎鳥居(額・妙見神社) −昭和三年(一九二八)四月
◎水盤 −昭和三年(一九二八) 四月再建
◎石祠 −再建 文久首載二八六一) 冬吉辰 芦屋村中
◎石祠 −文政二年(一八一九)正月
笠に水の流れに二羽の烏が遊泳している彫刻がある。
◎石燈籠 −昭和五十四年(一九七九)三月
◎社殿 −昭和五十二年(一九七七)五月再建
◎幣帛料の碑 −昭和九年(一九三四)三月
建武中興六百年記念会
幣帛とは神に奉る物の総称で御供物のことである。幣吊料とは幣吊に代えて神前に供えるお金のことで、資格のある神社にそれぞれ国県市町村より使者がたち金一封がおくられる。 (日本歴史大辞典)
◎庚申尊天 −
碑文の内容
粟屋貴船神社
改築記念碑
粟屋の氏神貴船神社は芦屋台地の中心に位置し闇?神(くらおかみ
のかみのかみ)高?神(たかおかみのかみ)を御祭神とし古来より折雨止
雨の神として尊崇し今日に至る。
隣接の宮田が飛行場建設により池と変ったがなお当神社を囲んでい
る。
社殿は昭和十三年に改築して以来度々修理を重ねるもその傷みは酷
く改築が必要となった。
昭和六十年頃修復を検討するも実現せず昭和六十一年に前面改築を
決意するも着手に至らず平成元年九月に3度目の建設委員会を組織し
た。
改築資金は全て無く建築委員の奔走と氏子の協力で粟屋区をはじめ
粟屋内約百四十戸出身者など約百口の奉賛により改築事業費約二千二
百万円の全額を寄付で募ることができ平成二年四月新築落成に至った。
本事業の完遂は当神社氏子の誇りとするものでありこれを記す。
平成七年十月吉日
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