常陸丸(ひたちまる)(本尊横町地蔵尊)難勇士之碑―(旧濱崎)

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(旧濱崎)幸町九−五三(浜崎海岸)
昭和十八年(一九四三二ハ月十五日建之 芦屋町先賢顕彰会

51 常陸丸(ひたちまる)(本尊横町地蔵尊)難勇士之碑―(旧濱崎)

幸町九−五三(浜崎海岸)

  昭和十八年(一九四三二ハ月十五日建之 芦屋町先賢顕彰会

     世 話 人   長野  政八  堀江 幸太郎

     梶田 高次郎  中西  仙蔵  中西  武平

     中西 儀七郎  中西 芳太郎  中村  邦平

     中村  建二  瓜生  天全  井地 虎之助

     倉垣  茂雄  松野 信太郎  小南  種男

     秋山  光信  安高 團兵衛  重岡  本芳

明治三十七年(一九〇四二ハ月十四日宇品を出港して同夜部崎沖に仮泊した常陸丸(六、一七五トン)は、翌十五日玄海灘に出、僚船佐渡丸と共に南鮮へ向った。日露戦争がはじまってから四ケ月後のことである。常陸丸の乗組員は監督官村上弥四郎(海軍中佐)船長キャンベル(英人)ほか船員一三二名、輸送部隊は近衛後備歩兵第一連隊本部と第二大隊(第八中隊欠)それと第一〇師団の糧食縦列の将兵訂一〇九五名である。はかに馬匹三二〇頭と重要器材が積まれていた。輸送指揮官は歩兵第一連隊長須知源次郎中佐(四十五歳)であった。六月十五日午前十時ごろ、常陸丸は沖ノ島の南西七〜八里の沖合で、ウラジオ艦隊の巡洋艦クロンポイ・ロシア・リユーリックの三豊におそわれた。至近距離からの猛砲撃を受けて機関部をやられ、・航行不能におちいってしまった。輸送船のかなしさこちらには小銃があるだけで応戦する砲はない。死傷者が続出した須知中佐は軍旗を焼き重要書類を処置して自刃した。将校の多くは自決した。兵員の中にはこれにならうものもあり、また海中へ身を投じるものもあった。露艦の攻撃はつづけられ、ついに火を発した常陸丸は午後三時ごろ海中へ没した。

生存者はわずか一〇〇余名にすぎなかった。佐渡丸も魚雷、砲撃を受け死傷者を多数出したが、沈没だけはまぬがれた。当時芦屋から島郷の海岸一帯に、常陸丸の食料・カンヅメ類がたくさん流れ寄って来たそうである。芦屋町仏教会では浜崎海岸に大卒塔婆を立てゝ殉難者を追悼慰霊することを協議し、金台寺住職本郷真照を先達にして、広く浄財あつめの托鉢をおこなった。町の有志も協力した。遭難の日から二十一日目の七月五日、玄海灘をのぞむ浜崎海岸にたてられた大卒塔婆の前に、全町の寺僧、町長石川重雄ほか官民有志・赤十字社員・学校生徒など多数参集して常陸丸・佐渡丸の殉難者を弔う大法会がいとなまれた。石川町長・本郷真照らが弔辞や表白文をさゝげた。法会の大卒塔婆はのちに近くの立江地蔵尊の後ろにうつされ、地元の人たちによって年々供養が行われていたが、長い歳月のうち風雨にさらされ、原形をとどめぬほどに朽ちはてゝしまった。

昭和十七年(一九四二)町長長野政八を会長として、芦屋町先賢顕彰会が発足した。顕彰会では第一次事業として浜崎海岸に常陸丸殉難勇士之碑を建立することを決め計画を進めた。碑文は若松市乙丸出身で芦屋高等小学校に学んだ陸軍中将松井太久郎に依頼した。碑が竣工して碑前で慰霊祭が行われたのは昭和十八年六月十五日である。碑の表面には尾野陸軍大将の筆になる「常陸丸殉難勇士之碑」の九文字がきざまれ、裏面には須知中佐以下の壮烈さをたゝえる松井中将の碑文が彰りこまれている。

芦屋町先賢顕彰会では引きつづき毎年慰霊祭を行っていたが昭和二十年八日目本数戦後、米軍が芦屋町に進駐してきたので碑前の慰霊祭は中止され、毎年光明寺で行われる先賢慰霊祭に含ませて執行されてきた。米軍が芦屋町から撤退しためは昭和三十五年である。

昭和三十九年(一九六四)六月十五日芦屋町先賢顕彰会では、浜崎の碑前で常陸丸遭難六十周年の盛大な供養慰霊祭を執行した。東京から須知中佐の孫にあたる須知正和(東京都常陸丸殉難遺族会々長)がわざわざ出席して挨拶をし碑前に祭詞をさゝげた。 (芦屋町誌)