大 国 座 跡

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大国座跡 −幸田九−一三
右の道は遠賀川方面に見る唐津街道


大国座跡地の碑
今は幸町公民館


幸町公民館横の幸町児童公園も大国座の敷地であった。


芦屋町制100周年記念誌より

大国座前の民家(この写真の右の家)は今もお住まいで、お住まいの方にお聞きしたところ、「当時は良く裏口からただで中に入らせていただいたものです。」ということであった。


右が大国座で当時からあった民家


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48 大 国 座 跡 − 幸町九−一三

 明治三十二年二八九九)五月、芦屋町の桑原永次郎・中西清八・吉田徳蔵の三名が建設発起人になって、趣意書をつくり大国座建設の賛成者を募った。小野貞次郎・小曽我清次郎ら十八名の賛成者を得たので、合資会社として資本金七〇〇〇円(一株五十円・一四〇株)で建設計画をすゝめることにし、県に出願した。建設予定地とされた芦屋町幸田の土地買収がおこなわれ、劇場の構造については京都の南座を参考にしたらという意見もあったが、結局熊本の東雲座(明治二十一年開場) を視察に行って、それと同じ規模のものを建てることにした。十二月下旬県から設立許可が下ったので、工事にかゝり同三十三年春上棟式を行った。八月二十一日県から定劇場としての設置許可が下りた。落成したのは九月下旬である。

 劇場の運営は株式会社組織によることにし、桑原永次郎・中西清八・吉田徳蔵・塩田猪平・小曽我清次郎・小野貞次郎・位地正次郎の七名が発起人となって、ひろく株式を募集した。

 「株式会社大国座」が設立されたのは九月二十日である。資本総額一万五千円(一株五十円・三〇〇株、翌年四〇株増資)株主総数二十五名であった。桑原・中西・吉田の三名が取締役、塩田と小野が監査役に就任した。

 大国座は敷地面積一、九〇七・四平方メートル、建物面積(階下)九四七二平方メートルで、観客定員は階下五六〇名、階上二六〇名、訂八二〇名だったが、階上には立見席もっくられ収容人員は一、〇〇〇名をこえたという。廻り舞台・花道・楽屋・役者宿室・中茶屋・売店・表木戸・下足場など完備した本格的な劇場であった。定劇場としての使用が認下されたのは明治三十三年(一九〇〇)十月三日である。コケラ落しには東京歌舞伎の市川市十郎一座をよんだという。以後東京・関西歌舞伎・川上音二郎一座・松井須磨子一座・五月信子一座をはじめ中央・地方劇団の公演がさかんに行われた。浪曲・奇術・筑前琵琶などの公演もあり、また大正期には映写設備も設けられ、当時「活動写真」と呼ばれていた映画も上映された。映画と芝居とを組み合せた連鎖劇が人気を呼んでいたという。

 俳優は劇場裏手の上下二〇室ほどあった割部屋に泊っていたが特別な名優は山香屋(市場町)藤屋(中ノ浜)米吉(金屋)旅館などに宿泊し、食事は穂坂・田清などの料亭でとっていたという。役者の顔見世には人力車数十台をつらね、幟を立て鳴物入りで町廻りをしたから、賑やかなものであった。開演はたいてい午前十時ころからで観客は遠賀・平垣・中間・島郷あたりから弁当持参でやって来ていた。

 大国座は明治・大正・昭和を通じて地方民衆の重要な娯楽施設だったが、昭和十九年(一九四四)三月十二日夜、火災によって焼失してしまった。広沢虎造の浪曲公演中のことだった。

 その後長野政八の出資によって大国座が再建されたのは昭和二十三年(一九四八)三月である。二階建てだったが規模は小さく、建坪は階下八一四・二六平方メートル、観客定員は五〇〇名だった。引きつづき芝居や映画が興行されていたが、昭和四十一年(一九六六)八月芦屋町は敷地と共に大国座を買い受け、これを解体した。(芦屋町誌)

 現在その一部に幸町公民館が建ち、残りは幸町児童公園となっている。