筑前蘆屋宿場構口の跡の碑 |
47 筑前蘆屋宿場構口の跡 の 碑−
(碑 文) 幸町四−一九 福岡藩の街道宿駅制度によると、筑前には六宿二十一宿が定められている。唐津街道中の芦屋は二十一宿の一つとして(水陸交通の要路であり船や人の往来が盛んであった)代官所、浦番所を置き、また旅籠(はたご)屋・木賃宿・問屋場などができ、宿場町としても繁栄した。こゝに芦屋宿駅の構口を設け、行き交う旅人たちえの看視の任にあたった。 ※幕府は江戸を中心に東海道・中仙道・奥州街道・日光街道甲州街道の五街道をとゝのえ、それを補う脇街道をもうけた。豊前小倉から肥前長崎にいたる長崎街道は脇街道である。筑前では六宿・二十一宿が定められた。黒崎・木屋瀬・飯塚・内野・山家・原田が六宿で、福岡・博多・箔崎・青柳・畦町一赤間・芦屋・若松・金出・宰府・二日市・甘木・志波・久喜宮・大隈・飯場・姪浜・今宿・前原・小石原・金武が二十一宿である。 主要な街道の両側には並木が植えられ、一里塚が立てられた。街道に沿って宿場町が発達し、多くの旅宿屋ができた。大名や幕更の泊まる所が本陣であり、従者の泊まる所が脇本陣である。宿場には人足・駕籠・馬を用意して旅人の世話をする問屋場があった。飛脚屋もうまれた。 小倉から若松・芦屋・赤間・畦町・青柳・箱崎を経て博多・福岡へ出、姪浜・今宿・前原を通って深江にいたる街道は、唐津街道と呼ばれていた。 芦屋には旅籠屋(平旅籠・飯盛旅籠)木賃宿も多かったと思われる。定まった本陣はなかったが、藩主や幕更は門閥家である大庄屋または豪商の家に泊まっていた。(芦屋町誌) ◎猿 田 彦 太 神−明治二十五年二八九二)三月再建 ◎大 乗 妙 典 一 字一 石 の 塔 − 弘化二年(一八四五)五月 中西善蔵 |