神武天皇社

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神武天皇社跡 −(旧幸町) 正門町14−15


(左)石燈籠(式日献燈)
(右)石燈籠(式日献燈)
嘉永二年(一八四九)五月


神武天皇聖蹟崗水門顕彰碑
昭和十五年(一九四〇)十一月



幟立石柱−明治三十四年(一九〇一)六月 市場町


県 社 神 武 天 皇 社 の 碑
大正十年(一九二一)七月


鳥 居 (神武宮)−文化五年(一八〇八)三月


幟立石柱−萬延元年(一八六〇)八月 銭屋源次


盥 盤 − 慶応四年(一八六八)四月  本城触中


狗 犬 − 弘化四年(一八四七)八月


潮干石 −文化九年(一八一二)春 松浦 藤右衛門


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40 神 武 天 皇 社 跡 −(旧幸町) 正門町一四−一五

 祭 神   神武天皇

       仲哀天皇

       神助皇后

 地理全誌に記せる如く、昔が原は古え岡田宮の跡なれば里民其徳を慕ひ奉りて、社殿を建てゝ奉祀し、社殿も頗る宏壮なりしに、乱世に及びて度々兵火に罹り僅かに小祠のみ残り居りけるに、後世仏法盛んになり宮跡を寺とし蘆屋寺と云う梵刹となし、境内に彼の小祠を移して若宮と崇めまつりけるを三百余年以前、寺を芦屋町内に移せるに因って社をも移し奉るなり。然るに寺院の境内に奉祀するは恐れ多しとて、延亨二年(一七四五)当時本町の豪商俵屋こと吉永清三郎自ら多額の金員を寄附して首唱者となり、行脚の僧帆牛(はんぎゅう)といえる者大に尽力し、町民と相謀り藩主黒田家に社地参千坪を乞い受けて、新に此の地に社を建てたり。爾後触宗社郡の祈願所となり、藩よりは普請の節は建設当時の例に任せ杉材を寄附せられ、又毎年に頭には浅川村より社前の門松二本竹四本を神納せらるゝを例とす。特に国主継高尊崇浅からず寛延三年(一七五〇)自ら参拝あり、宝暦四年(一七五四)郡米十二苞宛永代寄附の命あり。同十年(一七六〇)神田二反八畝歩を寄せられ、尋て斎隆斎清及び支封秋月藩主もまた参拝せらる。其の後文化八年(一八一一)十一月十八日斎清家老職吉田平兵衛をして代参せしめられたり。かく藩主代々尊崇あつかりき。故に王政の復古するに久び神武天皇の遥拝式を行はるゝに至り、福岡藩は権大属桑野弘大をして代拝せしめ、毎年三月十一日に祭祀局正権大属をして代拝せしむべき旨令達あり。是より先文化十四年(一八一七)八月十五日より二十日間、毎年農具市開設の儀を出願し允許を蒙むりしかば、同年より開始することゝ成りたるに其の賑いは年を追うて盛大となり、「神武市」の名は四方に喧伝せしかば近郡遠郷よりも群集しける。其の景況は筆紙に尽し難かりしに、惜い哉今は廃絶して名残りをだに止めず。(遠賀郡誌)

 「神武天皇社」という社名は全国にも珍らしい社名である。※吉永清三郎−吉永家は世々酒造を業とし、屋号を俵屋と称えていた。享保十七年から寛政年間まで数十年間、公用銀の用達をはじめ郡中罹災者救恤のため浄財を投げだした。産子養育にも多額の米銀を献納した。神武天皇社の再興造営・浜崎の石渡止築造などにも尽力した。

※神 武 社 の 農 具 市(神武市)−

 文化十四年(一八一七)には八月十五日から二十日間、毎年農具市をひらくことが許された。これは宝暦四年(一七五四)郡米十二俵の寄附を受けるようになっていたのを、郡方仕組替えになって十一俵召しあげられ一俵だけの神納になったので「社格も相立ち難く」と文化十四年(一八一七)農具市の開催を願い出て許されたのである。社修復などの費用は市(いち)の益銭をもって当てることにした。益銭は場銭としてではなく、すべて店々からの神納という形にして、いさゝかの神納もできない小店はその儀に及ばずということになっていた。八月十七日は神武社の平賀祭(正当の御祭礼)だから、市(いち)がひらかれることによって祭りの気分はいっそう高まった。各種の店・芝居・見世物などが出て近郷近在のものを集め、たいへんな賑わいであった。凶作つづきのときは中止となった。嘉永六年(一八五三)四月の「神武官御祭礼農具市見世物類一切名元控帳」が残されている。大宮司黒山近江守から郡内大庄屋中へ出した案内状や、寺社役場への届書、また町役場から出された規定などもある。大庄屋中への案内状には「神武宮四月御祭礼好例の農具市ならびに通り掛り見世物、来る十七日からおこなう故云々」と書かれている。文久三年(一八六三)四月の古文書もあるが、嘉永六年(一八五三)の「見世物類一切名元控帳」には出店・見世物・牛馬受持などが細かに記入されている。芝居も興業されていて、晴天十舞台、受持改方人も定められ、益金十両のうち五両は町役場納、五両は大官司納となっている。牛馬受持は芦屋村庄屋・組頭と嶋津・糠塚・若松・広渡・小鳥掛各村の者である。大城(だいじよう)往還右の牛馬宿受持は幸町の大工であった。出店の種類は農具二切・桶類・白米・居酒屋・瀬戸物・金物・八百屋・酒肴・御堂物・墨筆・蝋燭・揚弓・小間物・茶店・まんじゆう・飴・菓子・餅など雑多である。髪結床や風呂なども出ているし、一寸男の見世物というのもある。他郡他国からも牛馬市へ集まっていたので、町役場からは他方からの出店商人には深切にすること、津中(芦屋津)他方の出店とも安売りすること、出店・見世物小屋で喧嘩口論しないこと、また火の用心第一にして用水を備え置くこと、諾賭勝負は禁止といった規定が達せられている。近郷近在の老若男女は神武社の祭礼を楽しみ、また農具市・牛馬市には遠方から泊りがけでやって来ていた。

             (芦屋町誌)

◎(左)石 燈 籠(式日献燈)− 嘉永二年(一八四九)五月

    肥前伊万里陶器問屋中

    伊万里世話人  石丸 源左衛門

               横尾 武右衛門

               田中   兵治

               本岡  城太郎

        発起人  小野 清次郎茂廣

              柴田   活七朝光

              高崎 徳右ヱ門義高

              中西 次郎兵衛恒久

             越野  三郎平守任

◎(右) 石 燈 籠 (式日献燈)−

  町浦世話人 陶器旅行(たびゆき)中

   当町庄屋   江藤輿四郎勝照

   肥前伊万里幹事  二代 石丸 源左ヱ門

                本岡  市太郎

            本岡  佐吉

       当町幹事    中西 卯右ヱ門

                 庄野   藤七

                 中西   惜八

          明治十一年(一八七八)六月修繕

          昭和四十二年(一九六七)九月復元

 この二基一対の石燈寵は基壇まで入れて、高さ五メートルにも及ぶ大きなものである。以前は幸町から粟屋に通じる旧街道筋(鈴の松原)の左側に建てられていたが、米軍進駐時代に倒されていた。それを昭和四十二年(一九六七)九月町有志により現在地に復元された。芦屋陶器商人と伊万里陶器問屋とが共同で献納したものである。芦屋陶器商人と伊万里陶器商人との関係は深かった。 (芦屋町誌)

◎神 武 天 皇 聖 蹟 崗 水 門 顕 彰 碑 −

      昭和十五年(一九四〇)十一月

(碑 文)

 神武天皇甲寅年十一月舟師ヲ帥ヰテ筑紫國崗水門二至り給ヘリ聖蹟ハ此附近ナルベシ

※神武天皇御東遷のみぎりに、この芦屋の地に行在されたことは、古事記や日本書紀に書かれている。この顕彰碑は昭和十五年(一九四〇)国が皇紀二千六百年を記念して、帝室史料編纂局を設置し、幾人かの歴史学者や考古学者が神武天皇遺蹟を調査した結果、全国十九ヶ所の史蹟が指定され、その中の一つとして建立されたものである。(芦屋の栞)

◎幟 立 石 柱 − 明治三十四年(一九〇一)六月 市場町

◎県 社 神 武 天 皇 社 の 碑 −

        大正十年(一九二一)七月

社司 黒山敏行  芦屋町長 下郡一成

社掌 林田頼威  委員 長 桑原宗重

神社総代委員

   松浦 藤右ヱ門  石田  森松

   吉永  虎之助  上田  房吉

   中西   英敏  吉永 千三郎

◎鳥 居 (神武宮)−文化五年(一八〇八)三月

               観音丸

            掛屋 天満丸 乗組中

                住吉丸

             中西 次郎平満恒

             越野 三郎平満久

◎幟 立 石 柱 − 萬延元年(一八六〇)八月 銭屋源次

◎神 武 天 皇 社 史 蹟(及び御手洗池)の 説明板

 神武天皇社は記紀にしるされているように、人皇第一代神武天皇御東征の砌、一年御滞在になった当地筑紫の岡田の宮の聖蹟に建てられた神社で、その創建は古く由緒正しい神社である。かって宮域を去ること四丁ばかり西(現在自衛隊基地内)芦屋浜の砂中より湧出する泉あり、里人呼びて御手洗(おちようず)池と云う。其の水源微々たりといえども水勢の減ずることなし。僅かに一丁にみたずして砂中に消尽す。是往古神武天皇御東征の御時この水にて御手を洗い給い宗像三神を遥拝し給う。其の後仲哀天皇・神功皇后も先例に従わせ給うという。

 神社は源平の戦の際(一一八三)兵火にかゝって焼失した。御神体は境内にあった小祠に安置されたが、それから五百数十年間社殿を再建することが出来なかった。漸く延享二年(一七四五)芦屋の有志吉永清三郎氏の努力によって、社殿の再建をみるにいたり、代々藩主並に世人の崇敬をうけた。明治十四年一月村社に列せられ、大正十年福岡県々社に昇格されたのであるが、昭和二十年五月十四日米軍の空爆を受け社殿一切が壊滅した。御神体は幸に安泰で、芦屋町内岡湊神社に奉安合祀して今日に及んでいる。

※余事なれど芦屋飛行場のことを昭和十四年三里松原に日本陸軍飛行場が建設されることになり、昭和十七年に完成した。飛行戦闘隊がいて、これが実戦防空に出撃していた。航空基地内には九七式戦闘機を入れる掩体壕があちこちにあった。始めは滑走路が無く、草原を戦闘機が飛びたっていたが、同十八年の終りか十九年始めに、隼戦闘機がきて始めて滑走路が出来た。十九年後半から米機の爆撃がひどくなったので、よく飛行機を正門(今の正門町のとこ)にあった掩体壕までひっぱって行ったものだった。B29が大城(だいじょう)の蓮根池に爆弾を落したり、神武社に投下して社殿を焼いてしまった。(芦屋町誌)

◎盥 盤 − 慶応四年(一八六八)四月  本城触中

◎狗 犬 − 弘化四年(一八四七)八月

            願 主  江田 輿平

           世話人 辨天丸 兵助

                甚三良

◎潮 干 石 − 文化九年(一八一二)春 松浦 藤右衛門