芦屋町立歴史民俗資料館

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芦屋町立歴史民俗資料館の収蔵庫


芦屋釜(芦屋の栞の表紙より)


茶の十徳釜(芦屋町民俗資料館図録より)


素文平蜘蛛釜(芦屋町民俗資料館図録より)


八朔節句の配り馬(芦屋町民俗資料館図録より)


八朔節句の引馬(芦屋町民俗資料館図録より)


この写真は広島県の鞆の浦で行われている八朔の馬だし
である。不思議に上の写真とよく似た行事である。
芦屋の廻船問屋の船が立ち寄り同じ土地柄である鞆の浦で
同じ文化を継承したのだろう。


川 ひらた (県指定有形民俗文化財)



山鹿城跡中世火葬墓石塔


宝塔

29 芦屋町立歴史民俗資料館 −

中ノ浜四−四

 遠賀川河口芦屋は、遠い昔から港として重要な位置を占めてきた。川と海を舞台にしてきた先祖の歴史を物語る数多くの文化遺産は、私達に色々なことを語りかける。しかし最近、激しい開発と生産様式や日常生活の変ほうは貴重な歴史的遺産を急速に消滅させている。こうした実状にもとずき郷土個有の歴史の推移を正しく理解し、町民の協力により収集された資料の保存をはかると共に一般に公開して活用するため昭和五十三年八月設置された。

芦屋釜 −

 芦屋釜は名器として知られ、鎌倉から江戸中期までの永い間、湯釜の最高級品として名声を得ている。特に室町時代から織田信長・豊臣秀吉の時代に茶の湯の流行と共に、天下の名声を博したもので、砂鉄を原料とし「引中心」(ひきなかご)と称する精巧かつ独特な技法でつくられている。

今から四〇〇年ぐらい前ごろまでは、芦屋には優秀な鋳物師が数多くいて釜・釣鐘・鳥居・置物・金風呂などを鋳造しておった。これらの鋳物師の多くは、旧町名である金屋町(現在は中ノ浜と西浜町に分れているが、北九州市営バス停芦屋橋を中心にした周辺)に居住していた。昔はこゝの町名を釜屋町と云っていた。名工中特に太田・長野の姓を称する者が有名であった。(芦屋の栞)

茶の十徳釜 −

茶の湯釜の研究家であり、芦屋釜の研究家でもある故長野垤志氏は、その著『茶の湯釜研究−芦屋釜」 の中で次のように述べられている。「茶の十徳釜こそ筑前芦屋の一番古い視形に近い遺品と考えられ、建仁年間栂尾(とがお)の明恵上人が筑前芦屋に命じ「茶の十徳句文を釜に鋳つけさした」と書いてあるのはこの釜ではないか。この釜の形態は世に三口しか見つからず、藤原時代の感じを残している』と、なお又氏は茶の十徳釜が現存する茶の湯釜の中では、もっとも古い鎌倉初期の作品であることを、その形やかん付(つけ)の形式などから説明されている。

この茶の十徳釜の口径は一二・四糎、胴径は二三糎、高さ一六・二糎でかん付は茶の実となっている。(広報あしや第五十号)

素文平蜘蛛釜 −

  昭和三十三年七月二十四日発掘

 芦屋町民会館のある所、以前は中央公園より芦屋中学校のある所まで、高さ二十五メートルはどの小高い丘で合戦ケ原と呼ばれていた。昭和三十年からこゝを平担地にするため、この砂山の砂を取り除き中二十四メートルばかりの砂中から、この素文平蜘蛛釜が出土した。まきれもない芦屋釜である。高さが低く又ひらたく口も大きいので湯を沸すのに使いやすく、鎌倉時代より一般に使われていたものらしい。(芦屋町誌)

八朔節句の配り馬 −

 芦屋独特の年中行事の一つとして、八朔(はっさく)の節句(県指定無形民俗文化財)がある。八朔の祝いは旧暦の八月朔日に行な、われていたが、現在は九月一日に行っている。初節句を迎える男の子供のある家では、わが子が元気で強く育つように祈って藁馬(わらうま)を作り、女の子の場合には団子雛(だごぴいな)を作って飾る風習が、寛永十二〜三年頃から始まったと伝えられ、約三百四十年の歴史と共に今もなお続いている。

 馬はスグリ藁を束ねて馬の形に作り、紙で作っね武者人形をこの馬に跨がらせ、そのうしろに旗さしものを立て、この旗には山鹿兵藤次秀遠・識田信長・豊臣秀吉・徳川家康などの歴史上名高い武将の名が書いてある。男の子がこのような武将のようにたくましく又元気に強く育つようあやかりたい親心のあらわれであろう。

 ダゴビーナはもち米をひき蒸したものを搗いて、食紅で色をつけつゝ雛人形を作る。そのはかに野菜や花や料理を盛ったお膳なども作る。馬も雛も何十となく多いところでは百以上も作って床の間に飾り、朔日一日(ついたち)を家じゆうで祝うと、翌二日は夜の明けるのを待って近隣の子供たちが我さきにと貰いに来る。

※藁馬に紙製の武者人形を乗せて祝う行事は、黒田長政公が筑前五十二万石の藩主として入国され、代々藩主江戸参勤のとき又帰国の折に、芦屋の神武社に家老を代参させた。その日馬に乗って同社に参拝する威風堂々たる姿から思いついたのが始まりだとも云われている。

※また紅白の餅を搗き男子の場合は馬、女子の場合は雛人形の絵の刷りものに「八朔貿 某」と子供の名前を書いたものを添え、祝儀を貰った近隣や親しい家々に配る風習が今もなお残っている。八朔賀の配り物に添える二匹馬の刷り絵の当初の原画は画家吉田千鶴が描いたものだと言われている。

 (芦屋町誌)

八朔節句の引馬 −

 特に男児の初節句の家では、長さ三尺余、巾二尺余の合箔に車や手摺(てすり)を設け、その上に金銀の箔に輝やく豪華な鞍(くら)や撃つけた木彫り又は張子の馬をのせ、後部に竹笹を立てて、翌二日の終日を近隣の子供にひかせて町内を廻る。

 ハイシドゥドゥお馬のお通り先のけ先のけ」と声高らかに引かれて行く馬の後を追って、その家の縁故者は無論親交ある者は、みな祝儀袋や菓子袋を又或人は短冊に歌を書いて竹笹に結び付ける。竹笹に吊り下げられるこれ等の祝儀袋や菓子袋・短冊の数が多ければ多いほど、その家の附合の広さを示し又自慢になるのである。 (芦屋の栞)

※芦屋町立歴史民俗資料館内には筑前芦屋町ならではと云える芦屋独特の民俗資料が数多く陳列してあるが、きりがないのでこの紙面では以上にとどめる。

(歴史民俗資料館の北裏側の別棟に)

川 ひらた (県指定有形民俗文化財)

 (説明板)

 川ひらたは古来遠賀川の水道を利用して、筑豊各地の穀物・蝋・木材等の産物を運搬していた船で、これらの産物は芦屋に集荷されると大型船によって需用地に積出されていた。江戸時代になり石炭が発見されてからは、専ら筑豊炭田の石炭運搬船として使用されるようになり、五平太船とも呼ばれ一時は総数七千艘に至ったのである。明治時代に入り、鉄道が開通し若松が石炭積出港となってからは、石炭輸送は漸次鉄道輸送にかわり、川ひらたは砂運搬船として身を変え時代の推移と共に姿を消して行ったのである。

 現在はこの川ひらたの外に、八幡区折尾高校にも一般保存してあるのみである。

※此所に展示してあるひらた船は昭和三十年代まで、芦屋町の中西儀七郎の持船として大正期まで石炭を運び、後に川砂運搬に転用されたものである。この船は木造船で三枚ダナ、長さ十三・八メートル巾二・七メートル深さ〇・六メートルで川ひらたとしては最も大きい型である。

※船の中には船頭さんが寝とまり出来るように、中央に奥行二メートル高さ一メートルほどの屋根がはってある。璃鴎や鵬欝・寝具等の生活用具も中に積まれていた。こゝを居間(おりま)と云い船頭たちはこゝで食事をしたり寝たりした。これは所帯船、その他に食事設備のない番茶船、石炭を積むだけのハダカ船と川ひらたにはいろんな種類があったという。

※遠賀川は帆を張って運行もしたが、浅瀬になると上りの時は川にはいって船を引っぼった。堀川では櫂や水棹をあやつり、また空船は陸上から縄で引っぼった。船の縁は水庫をあやつるとき、船頭が前後に歩きやすいように巾をひろく造られている。この船の特長は船底が浅いことであって、遠賀川を初め堀川・江川も浅瀬が多いので、船底を平たく浅くして団平船型になっている。

※明治維新以前、藩では遠賀・鞍手・嘉麻・穂波四郡の貢米を、川ひらたに積んで遠賀川を芦屋まで下り芦屋に集積し、大船に積んで大阪表へ送っていた。明治維新以後、貢米の輸送はなくなったが、川ひらたは筑豊地帯の石炭・玄米・石灰石・生蝋木材などを積んで遠賀川を下っていた。筑豊炭田の開発が進むにつれて各炭坑で採据された石炭は、馬や車力によって近くの川岸に運ばれ、積場から唯一の石炭搬送船である川ひらたに積みこまれて遠賀川を下った。この川ひらたによって芦屋港に集荷された石炭はこゝで千石積みの大型帆船に積み替えられ、遠く需要港に向けられたのである。川ひらたは重要な役割りをはたすことになった。船数もにわかにふえ、明治三十年頃には七千艘にも達するのであるが、遠賀郡内の川ひらたがその半数を占め、その主力になって活動したのが芦屋・山鹿の川ひらたであった。これらの川ひらたが芦屋の港に集って本船に積荷を積みかえる船や、江川を抜けて洞海湾に行く汐まち船と共に、遠賀川の河口は帆柱の林立で対岸の景色が見えない程であったという。しかし明治二十四年筑豊線開通と共に、遠賀川の川ひらたによる石炭の輸送は減少してゆき、一時は七千艘を数えた川ひらたもだんだん数を減じ、明治末年には約二千五百艘、大正十二年には千余艘に減り、十五年には五首余艘を数えるのみとなった。大正中期頃より川ひらたは遠賀川の川砂を洞海湾に運ぶ砂船に変っていった。

※石炭の発据以後、貢米積川ひらたに交って石炭積川ひらたが遠賀川を往来するようになった。五平太船と呼ばれたが名称の由来については種々の説がある。一説には寛政の末、九州平戸領深江村の五平太という男が高島に渡り、石炭を堀って販売していた為この名称がおこったともいう。慶長年間、木材・雑貨など運ぶ用船を比良太と呼び、一般に「平太」と書いた。

 福岡城の築城のとき、又は江戸城・大阪城の築城工事に藩から建築材料を積み出したり、また遠賀川の改修・吉田の切貫など、藩の御用として「平太」が遠賀川を上下したことから、一般に「御平太」と尊称されたともいう。御平太がいつの間にか五平太と書くようになり、あたかも人の名であるかのように考えられたのだという説もある。以上説にはいろいろあるが、浅瀬を通るために喫水が浅くされていたので「浅舟」とも称されていたが、芦屋の船頭さんは単に「川舟」といっていた。

※川ひらたはふつう五〜六艘で一組をつくるが、多いのは一組が十四〜五艘から二十艘のものもあり、少ないのは二〜三艘のものもあった。たいてい一人乗りだが、船頭見習いのために十五〜六才の少年を、何年間幾らという契約で船に乗せることもあった。これを片乗(かたのり)という。組内の船には世帯船がいて食事などはそこですませた。船頭は自分で船を持っているものもあれば、船主に雇われる者もあり、また農業・漁業の合間に小使いかせぎに船に乗る者もいたが、芦屋町の船頭はほとんどが一専業であった。

※五平太船と称された川ひらたの船頭たちの気風も荒かった。

 「五平太船頭のどこ見て惚れた、色は黒いが川筋育ち、喧嘩早いが情にゃもろい、水にうつした晒ペコ」という歌にみられるように、船頭たちは夏はフンドシ一本、冬はドンザ(刺子(さしこ)の尻切半纏(しりきれはんてん))を着て船をあやつった。炭坑夫と同じように飲む、打つ、買う、それに喧嘩が日常であった。船頭仲間にも親分、子分、兄弟分の義理人情にあつい人間関係が生まれた。こういう徒の集団だから、その日常も常規を以って律し難きものが多く、荷物・荷主の争奪は勿論、舟の縁がさわったとか、後から来て追い越したとか言う場合に仁義をしなかった事から髄所に船頭どもの争斗が始った。血腥(ちなまぐさ)い出入は殆んど毎日であったという。

 気は荒いが淡白な気性、義理人情に生き、義侠心には富んでいるが「何んちかんち言いなんな、理屈はなかたい」というふうに、理屈よりも先に行動で示す言論無用「腕で来い」の世界であった。

 大正鉱業の創始者伊藤傅六・伊藤傅石衛門父子は川ひらたの船頭をしていた。芦屋に生れた吉田磯吉翁も青年のころは川ひらたに乗っていた。

※北九州市の依頼により、最後の五平太船を造った船大工故中西吉兵衛氏が元気なころ話されたこと。家は江戸時代からの舟大工で、わたしが七代目だ。川ひらたの材料は主に杉の木でこの近所の山から切り出したものを木挽にひかせ、船は他人を使わずたいてい一人で造った。一艘造るのにだいたい六十人役(六十日)かゝったものだ。一艘の船は十年くらいもつ。底板は一寸二分(三六糎)だが、石炭をジカに積んでスコップですくい上げるのだから、うすくなって四分か六分くらいになる。家が川ぶちなので川に面した方を造船場にして出来るとすぐ進水させていたが、みんな酒を持ちよって盛大な進水式をしていた。山鹿にも船を造る所が出来ていたが舟大工は大島や地島から来ていたように思う。船の神様というのはオシカ様で、昔は一月何日かに船頭が集って盛大に祭りをしていたし、舟大工が寄って大師講のようなものもっくっていた。(芦屋町誌)
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山鹿城跡中世火葬墓石塔 −

 これらの墓石が発掘された城山公園は約八百年前、源平の壇ノ浦合戦で平家を助け水軍として活躍した、筑前の豪族山鹿兵藤次秀遠の城跡で山鹿氏が壇ノ浦で滅びて後は麻生氏これにかわり城主となる。昭和五十二年三月城山公園の散策道建設工事中、五輪塔など中世の墓地遺跡群が発見され、町教委と県教委が調査した。この調査で五輪塔など供養塔約十余基を発据、人骨片などの埋蔵遺跡が点在しているのが確認された。発掘された墓石には年代も名前もないが、形や刻み込まれている梵字などから、南北朝時代から室町時代初期にかけてのものとみられる。また城跡本丸の一角で見つかり遺骨が火葬されていることで同城の身分の高い武将の墓群と推定される。資料の少ない中世の山鹿城の貴重な出土品である。(広報あしや)

※昭和五十二年三月五日山鹿城跡城山公園の北西側中腹に散策道の工事中、十一糎立方体で四面に梵字が刻み込んである石が発見された。芦屋町教育委員会に連絡があり、宝篋印塔の一部であることがわかり、教育委員長と文化財保存委員鈴木長敏氏・郷土史家藤本春秋子氏等が早速現場に行き、現地調査の結果確認のため六日より今少し堀ってみる事にした六日にはまとまったものは出なかったが、バラバラながら宝篋印塔一基分、五輪塔三基分が堀り出された。以上の話を耳にしたので筆者も七日に現場に行ってみた。土を堀り除いているうちに、十五糎巾で長さ五十糎ぐらいの平たい石が三枚列んで縦に埋められているのが出てきたので早速教育委員会に知らせに走る。行っている間に仏像が二体堀り出されていた。文化財保存委員会から県文化課へ連絡したので、県より松岡調査係長が来られて、本格的に発掘調査をすることになった。吉岡助手も来られ日をおって発掘が進むにつれて、五輪塔が部分的ではあるが数個堀り出された。まとまったものは一つもなかった。

 墓群の広さは前面約八メートル奥行約二・五メートルのほば長方形で、発掘状況より推測すれば約十五基分はあっただろうということだ。全面に海岸で波に洗われた拳大(こぷしだい)の黒色の石が二十糎程の厚さに敷きつめられていた。骨は火葬したもので骨らしく原形をとどめているのはほんの少しで、粉々になって土とまざっているのが大部分で、まとまってあるのが五〜六ヶ所ぐらいであとは散布したような状態で土とまざっていて、著でつまんで骨をひろい集めるのに大変な時間と労力を要した。今回の発掘調査で特に記するものといえば、頭骸骨の上部が一個出たことだ。これは頭骸骨の上に平たい石が一枚かぶせるようにのっかっていた。この頭骸骨は形をこわさないように、下部まで土と一緒に堀り出して県文化課に持ち帰えった。性別・年令・年代等の調査をする由。

 また土師器の小さな破片が数個と珠光青磁の小さな破片が一個出土した。発掘調査の期間は三週間ばかりで三月二十八日に終った。発掘のあとは堀り出した事大の石をもとのように敷きつめて列べ、その上に土をかぶせて埋めもどした。今は散策道となっている。松岡係長の話では発掘したばかりではっきりは言えないが、宝篋印塔や五輪塔の形から推測すれば南北朝時代(約六〇〇年前)のものであろう。

 城郭内に墓群があった話は聞くが造成工事後の話で、今回のように原形をとどめてあるのを手がけるのは始めてなので貴重な資料になる。おそらく山鹿城ゆかりの武将の墓であろうと。
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宝塔 − 一重の塔で基礎・笠は方形・塔身だけが平面円形で首があることが特色である。(日本歴史大辞典)

 この宝塔は形式・技量・調刻などからみて、南北朝初期〜鎌倉期に入るのではないかと推定される。昭和三十二年旧芦屋町役場建設工事(現在地)のためブルトーザーで整地中に見つかったものである。塔身は八面でその六面には一つづつ仏像が刻んであり、その下の方形の基礎石の前面にも二体の仏像が刻んである。 
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