安長寺

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安長寺 惣門(屋根門)


惣門(屋根門)の右左の御堂がある


芦屋歌舞伎の役者町跡の碑


左は当山再興上人、右は南無善女龍王の碑


左は地蔵像 元禄六年、芦屋歌舞伎役者であった日高藤四郎の墓らしい。
右は大乗炒典一字一石之塔


墓石 −嘉永三年
幕末のころ住持として腰をすえ、安長寺の復興に尽した僧


水 盤 昭和3年9月 施主松下虎吉、松下武彦、松下勝次



本堂 


空也上人の立像(県指定有形民俗文化財)


左から観世音菩薩、水子地蔵、すがり地蔵が並んでいる。
芦屋案内記の刊行後に建立され掲載されていない


お百度石が平成二年に奉納されたもので芦屋案内記には掲載されていない

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 21安長寺−  (旧東町)

     船頭町11―18

 西方山極楽院と号す。即ち空也堂にて、浄土宗光明寺の庵室たりとあるがもともとは時宗であった。開基年号は明らかでない。空也上人が来てのちに浄土宗に改宗したものらしい。

 記録によれば元禄元年(一六八八)には空也堂安長寺として再建した。其の後どのような経緯からか再び時宗へ改宗している。(芦屋町誌)

 この東側一帯の町を以前は寺中(じちゅう) 町と言われていて、芦屋歌舞伎の役者たちが住む役者町であった。安長寺はこれら芦屋役者を壇徒としていた寺であるが、芦屋役者の離散もあって今では史跡の様相を濃くしている。(芦屋ガイドブック)

◎芦屋歌舞伎の役者町跡の碑 −

(碑文)

 平安時代諸国遍歴の空也上人に従って当地に来た供人達を祖先とする念仏衆の人々は、慶長十年二六〇五)藩主の御茶屋跡であった此の附近の地を賜わり寺中町を形成し、いっしか歌舞伎を手がけ各地を巡業し、芦屋役者の名声を博したが、明治の末期に廃絶した。当安長寺は初め空也堂として、役者町の人達が建立したものである。

◎惣門(屋根門) −

 左石に御堂を従がえた珍らしい造りである。左石に安置されたお地蔵様が向い合っているので、里人は「向い合いのお地蔵様」といっている。

墓石 −当山再興上人

 佳光院其阿照会老和尚

 昭和五十年三月廿日寂

 神田照全 八十六才

南無善女龍王の碑 −

地蔵像 元禄六年(一六九三) 七月 日高藤四郎

大乗炒典一字一石之塔 −

 寛政十年(一七九八)二月

墓石 −嘉永三年(一八五〇) 三月十八日

 當寺中興開山善翁篤巌大和尚禅□

 事蹟は全く不明であるが、無住時代の多かった安長寺に、幕末のころ住持として腰をすえ、安長寺の復興に尽した僧のようである。 (芦屋町誌)

◎水盤 一

◎本堂 一

 遠賀 川西四国第八十七番札所

 本尊 聖観世昔菩薩

◎扁額 一 空也堂

空也上人の立像(県指定有形民俗文化財)

 木造で自作と伝えられ空也堂の本尊である。

◎空也上人の画像 一

 空也は京都の人だが姓氏は明らかではない。醍醐天皇の皇子とも常康親王の子だともいう。延喜三年(九〇三)の生れである。二十一歳のころ尾張国分寺で出家して空也と称し、国内をまわって道路修理・架橋・廃寺再興・死体埋葬また井泉を堀るなど慈善救済事業につとめた。京都で市聖(いちひじり) と呼ばれながら念仏教化をつづけ、絡東に一寺を建てた。六波羅密寺(西光寺)である。天禄三年(九七二)こゝで没した。

 空也は天慶年間(九三八〜.九四六)供八十八名をつれて芦屋に来たと言い伝えられている。(芦屋町誌)

 わにぐち たた空也上人は毎日迂々に立ち、鰐口を敲きながら、腰には瓢箪をぶらさげて、手振り模様もおもしろおかしく念仏踊りをやっては、善男善女を集めて仏教のおしえをといていた。ところが或る日のこと、空也上人は突然十八名の供人を置きざりにしたまゝ、薄情にも京都に帰えってしまった。立ちどころに困ったのは十八名の者で、明日からの生活もどうしてよいか判らなかった。思案に暮れた結果、見馴れ聞き覚えた空也上人の念仏踊りを真似ながら、辛くもその日その日の生活を凌ぐことになったのが、そもそもの芦屋役者の起りである。

 この附人(つきびと)たちの子孫が江戸時代になって歌舞伎を手がけ、有名な芦屋役者になったのである。明治中期ごろまでは盛んで津々浦々を巡業し、かたわら若者たちに歌舞伎や踊りの手ほどきなどをして、村芝居の興隆にも大いに貢献したが明治末期には廃絶した。(芦屋の栞)

◎鹿 の 角 の 杖 −

 鹿角杖は空也僧のシンボルだった。空也と鹿角杖については平定盛との話がある。空也の庵室近くに遊びに来ていた鹿を平定盛が射殺した。空也はあわれんで其の皮と角をもらうけ、皮は裘(かわごろも)にして身につけ、角は杖頭にさして遺愛のものにしたという。(芦屋町誌)

◎守札版木及び写したもの ー

◎芦屋役者たちの過去帳 一

◎安寺由緒書 −


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