福岡法務局蘆屋出張所(登記所)跡

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福岡法務局芦屋出張所(登記所)跡の碑



このあたりは昔、新築(東町)と呼ばれていましたが町名が変わり
今は船頭町と呼ばれています

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19福岡法務局蘆屋出張所(登記所)跡の碑

(旧東町)船頭町13−15(徒歩7分)

 明治十八年登記法が発布され、同十九年遠賀郡役場内(幸田)で事務取扱いをしていたが、同二十一年十一月小倉区治安裁判所(後に区裁判所)芦屋出張所と改称、同二十五年芦屋町が幸町に新築して献納した建物に移った。同四十年五月火災のため焼失し、同四十二年三月幸町の民家を借りあげて業務をつづけた。大正十五年五月三十日こゝ東町に移転した。昭和二十二年五月福岡司法事務局芦屋出張所と変更、同二十四年六月福岡法務局芦屋出張所と称した。
 同二十九年四月芦屋町において庁舎を補修した(経費二一万九一四四円)。同三十九年五月十一日水巻頃末に移転した。(芦屋町誌)


 ― 繁昌した新築 (東町遊廓)― 〔明治二十四年〕

 崗 芦屋物語 榎枝卯七著より

 ”軒をつらねて”繁昌した遊廓のことについてお話ししてみましょう。明治二十四年に遊廓取締県令が施行されました。当時の遠賀郡に遊廓が許されていたのは若松の連歌町と芦屋の新築(東町)の二カ所しかありませんでした。それがため、ここは特別のかん楽境で、いんしんを極めていたものと思われます。その証拠には請願巡査の駐在所が設けられていたくらいです。遊廓(貸座敷)は三藤楼、梅月楼、恵比須楼、旭楼と軒をならべ、一寸離れて自由亭(後に雁楼)の五軒がありまして、それぞれ多数の芸妓や娼妓をかかえ、それを一杯飲屋などがとりまいていた光景を想像してみて下さい。

 遊廓設置前には町内各所で、遊廓類似の営業が行われていたのですが、風紀取締りのため一区画に制限されたものであり、当時金屋には遊鶴亭、三鼎楼、其の他の料亭があり、叉芸妓券番もありました。

 石炭関係の業者や川船や洞船の船頭さん相手の石炭景気で、花柳界は盛んなものであったことが想像されます。

 さて、遊廓の新設に伴って道路の改築が地元有志の努力で行われることになります。岡湊神社横から東町新川辺まで、直通改修費百八円の内寄付は募金六十八円、残り四十円の不足に対し議会は二十五円の補助を議決しています。この道路改修事業の有志代表として中西村吉(通称勘助、屋号吉勘)吉田幸次郎(天野屋の先々代)両氏から町に提出した書類や図面が保存されています。

 又、これと前後して、中小路から大国座前に通ずる―通称三軒屋道路が開設されました。工事費九十円は前年決議した炭坑試掘勧業費の残額から支出したと記録にあります。