遠賀川

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 遠賀川は古代から氾濫と堆積を続け、その姿を激しく変えてきた。慶長年間の古地図によると、戦国時代以前には、今の遠賀川の流れではなく、彦山、嘉麻、穂波、犬鳴などの用水を集めて、いったん一本にまとまった大川は、垣生の丘陵にぶっつかり、東西二つに分流していた。

 東の流れは今の曲川とほぼ同じく、立屋敷の東から杁、古賀あたりを曲りくねりながら猪熊の東側を通って三ツ頭へ流れた。
 その曲がりくねった流れが氾濫を引き起こしたようだ。
 黒田長政は、この地域の石高を上げようと氾濫を続ける遠賀川の両側の領地を整備する政
策を掲げ、今に近い流れに改修工事をして藩の財政を潤そうとした。

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 17 遠賀川

 遠賀川は穂波川・嘉麻川・彦山川などをあつめて、川口の芦屋まで全長六四キロ、遠賀・鞍手・嘉麻・穂波・田川の五郡をゆるやかに流れて、流域平野をうるおすだけでなく、古代中世から水上交通路として重要な役割をはたしてきた。源を鞍手郡犬鳴山。嘉穂郡馬見岳・豊前英彦山などに発している。

 遠賀川流域にて産出する貢米を平駄(ひらた) にて水上輸送していた。

 平駄とは船底を平たく浅く造った船で「浅丹」ともいわれていた。福岡城築城のときまた江戸城・大阪城工事に藩から建築材料を積み出すときなど、藩の御用として遠賀川を上下したから「御平太」ともいわれた。昔は遠賀・鞍手・嘉麻・穂波四郡で産出する貢米を輸送していたが、明治にはいってからは筑豊炭田に産する石炭を川ひらたによって輸送した。其の他玄米・石灰石・生蝋・木材などを積んで、この遠賀川を下っていた。

 しかしこの川はひとたび氾濫すれば、流域が広いだけに田畠に大損害をあたえ、人畜に被害をおよぼした。遠賀川で主な輸送機関である川ひらたも流失したり−損壊された。

 芦屋地区で遠賀川改修工事が始ったのは明治四十二年五月で工事終了は大正五年三月である。旧遠賀川は川幅の広い所や狭い所があったので、狭い所は改修工事用地として買収して川幅を広げた。芦屋の祇園崎が半分以上及び山鹿の雁木・渡場・浦も大半が河川敷地となった。勿論川底は深く漠深された。(芦屋町誌)