鶴 松 墓 苑 (浜口町)

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12 鶴 松 墓 苑  − 浜口町

芦屋案内記より      

鶴松墓苑 −浜口町六−四七(徒歩十分)
 鶴松墓苑(鶴松墓地又は浜口墓地ともいわれる)は戦時中の昭和十五年に開設された軍の飛行場敷地内にあった共同墓地の総引越先である。終戦後町の区劃整理などにより、禅寿寺墓地や安養寺墓地のものも移され、また東町の芦屋役者の墓百二十基余もこゝに移された。今ではこの松原の中に五.六百基ばかりの墓碑が散在している。
 「鶴松」とはこの松原の中に、あたかも一羽の鶴が羽を一杯にひろげた形の松がある。名松「鶴松」とたゝえられ戦前に何回か発行された芦屋名所絵葉書には必ずおさめられていた。主幹の高さは僅かに六〇度余であるが、根まわりは一九〇糎もあり六本の枝が四方に延び、そのほとんどが砂地をはって翼を形成しみごとなものである。戦前は鶴の首にあたる枝がほどよい高さにのぴていたが、惜しいかな今はその首枝はなくなっている。           (芦屋町誌)
◎合戦丘戦没武士合葬墓 −
  昭和三十三年(一九五八)三月建之 芦屋町
(碑 文)
 元暦二年二一八五)二月一日豊後北候下川辺等芦屋浦に先登す。太宰少式の子嘉麻兵ヱ等之と戦ひし処を虚鴫と称ふ。
中ノ浜、船頭町の上白沙青松の丘にして、戦没五武士の墓ありけるを何者かに持ち去られ、黒山町長及町民甚だ遺憾と為すこと久し。然るに町の発展に伴ひ丘を小公園にしっらえるため七百五十余年後の今日更めて塔を建て此地に改葬合祀せり。欣喜に堪えざるなり。諸霊夫れ当局の此行を受け読経回向を耳にせば、速かに彼岸に登り極楽浄土に成仏せよ。
(崗六号田中八郎)
※今は平担地になっているが、以前芦屋中学校南方一帯に高さ二五メートルばかりの砂丘があった。文治元年(一一八五)のころ屋島の戦がはじまる前、源範頼(のりより)軍の北條小四郎・下河辺行平らが奮戦して原田種直軍をやぶり、豊後に源氏軍の拠点をつくることに成功した。芦屋で両軍が戦った所は合戦ケ原と呼ばれる。永禄十一年(一五六八)には長州の毛利と豊後の大友とがこの合戦ケ原で戦ったという。
※合戦丘戦没武士合葬墓は以前中央公園の砂丘の上に建てられていたのだが、砂丘をけづって平担地にしたときこゝ鶴松墓苑に移された。(芦屋町誌)
◎鶴松の碑 −昭和五十六年三月
(碑文)
この松は首を伸ばし両翼をひろげ、今にも飛び立とうとしている姿が、いかにも美しいのでこの名が生まれた。両翼の長さ一〇メートル首の高さ二メートル幹の周り二九メートルで樹令は三百年以上と推定されている。惜しいかな昭和二十年ころ首の部分が折れたので、新しい枝が育てられた。古くから芦屋の名勝の一つに数えられている。
※当鶴松墓苑には吐香林田頼威の墓・梅窓庵吐香の墓・太田氏一族の墓、近世に至りてば大統社工業塾を創立した吉田三郎の墓がある。




合戦丘戦没武士合葬墓



鶴松の碑と鶴松



    鶴松



芦屋飛行場を造るときに飛行場内の全ての墓を納骨したのであろう


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